鎌倉殿と呼ばれた源頼朝がおよそ800年前日本で初めて武士として政権を握り、都を築いた場所が鎌倉です。現在では鎌倉の鶴岡八幡宮や鎌倉の大仏様が有名ですね。鎌倉はお寺の町でもあり、鎌倉市内だけでもお寺がおよそ120もあり、寺密度では京都・奈良を超えるのです!
早速鎌倉の歴史をひも解いていきましょう!
鎌倉の大仏様に3年に一度に贈られるものとは?
鎌倉といえば、鎌倉時代に造られた国宝鎌倉の大仏です!大仏様に横筋が見えますが、これは鋳造する際に下から徐々に積み上げられたた跡が残っているのです。
私たちに福をもたらしてくれそうな耳は一般的な日本人の身長を超える190cmもあります。この大きな鎌倉の大仏様には、全長180cm重さは片方だけで45kgもある大きな草履が3年に一度贈られます。これは戦後復興に励む日本人を大仏様に行脚してはげましてもらいたいと願い、茨城県の子供たちから、草鞋が贈られたことから始まりました。
鎌倉の大仏が造られた背景は下記リンクでひも解いています。
鎌倉の仏像づくりと京都・奈良の仏像づくりの違いとは?
当時は京都で活躍していた院派や円派と呼ばれる仏師たちが主流で、奈良で活動した慶派や運慶は主流からは少し外れた仏師でした。しかし新しい技術や様式をもっており、源頼朝が鎌倉に呼び込みました。慶派というとリアルで大きなものが得意というイメージを持ちます。源頼朝は、大きく本物そっくりで、まるで生きているように精巧な、わかりやすくレベルの高い芸術で、都(京都)に劣らないもう一つの中心という演出装置として仏像づくりを行った可能性が考えられます。
当時仏教絵画や彫刻は、重要な芸術作品でもありました。武士が政権を握るようになり、京都・奈良に対抗する意識が鎌倉にあったようで、文化の発信地として新たな技術が求められました。そのような背景から、鎌倉時代は、奈良平安期の絵画のような表現から、まるで実在する人のような躍動感ある表現へ変わっていきました。まさに戦うことが仕事であった武士による文化に移っていったのです!また、運慶も鎌倉に行き、関東武士たちと出会うことで新しい一歩を踏み出したようにも思えます。すなわち伝統的な京都の仏師の流儀から抜け出すヒントを関東武士たちの間ですくいとったのではないでしょうか。
鎌倉時代に広まった仏像彫刻の技術に、体のパーツを分けて作る寄木造りという方法があり、その後寄木造りが一般的な技術となりました。寄木造りとなったことで、仏像の中を空洞にして、仏像の裏側から水晶を加工した目を納めるようになりました。この玉眼(ぎょくがん)という技法は、水晶を薄く削り、裏から漆で瞳を描き、白目の部分は綿をつめ、目尻の毛細血管はちぎった和紙で表現するもので、日本で生まれた独自の技です。
どうやら、人体をよりリアルに表現し、仏像に命を吹き込むようになったのが鎌倉時代の仏像づくりのようですね。
鎌倉時代の特徴的な仏像が祭られているのが、覚園寺(かくおんじ)ではないでしょうか。その仏像とは覚園寺の御本尊の薬師如来三尊坐像です。覚園寺は、1218年北条義時公の薬師如来信仰により建てられた大倉薬師堂はじまりと伝えられています。参道を歩いた先にあるのが、趣のある薬師堂で、この中に入ると端正なお顔をされた御本尊の薬師如来三尊坐像がお祀りされています。注目していただきたいのは、台座からたっぷり垂れ下がる衣です。鎌倉以外では、なかなか見られない法衣垂下(ほういすいか)と呼ばれるもので、滝のように溢れて垂直に落ちています。京都に対抗する気持ちがあったので。武士の時代の始まりに、新しい技法、新しい文化を、鎌倉の人達で作れる文化の一つが法衣垂下にも表れているようです。
鎌倉時代以降、鎌倉の町では仏像づくりの技が脈々と受け継がれてきましたが、明治時代に入ると廃仏稀釈という仏教を排斥する運動が巻き起こり、鎌倉でも仏像を彫る職人の数が大きく減少してしまいました。しかし、現在でも貴重な技が受けつがれています。日本が誇る守るべき技術の一つですね。
鎌倉でお茶を飲む習慣が始まった!?
この謎をひも解くための鍵は禅宗です。
中国から伝わった禅宗の中でも最初期に造られたお寺が、建長寺で、日本で最初に”禅寺”と称した中国宋朝風の臨済禅だけを修行する専門道場です。
日常生活の中から悟りを開く禅宗では、修行の一環としてお茶が飲まれており、この習慣が武士や庶民に伝えられました。禅宗が広まったことが、現在私たちのお茶を飲むという習慣に密接につながっているといえるのです。
禅宗が広まる以前もお茶は飲まれていましたが、お茶を飲むのは宮廷や貴族の限られた人々のものでした。まさか禅宗がお茶を飲む習慣を広めたとは思ってもみませんでした。建長寺の門前に点心庵で抹茶をいただけます。建長寺に行った際は、点心庵で抹茶をいただきたいですね。
鎌倉を別荘地にしたドイツ人とは?
明治時代、七里ガ浜から望む絶景に心を奪われた人物の一人にドイツ人医師エルヴィン・ベルツがいます。彼は当時の日本で一般的ではなかった海水浴が健康に良いことと説き、鎌倉が保養地として優れていると広めたことにより鎌倉の人気が高まりました。外国人や皇族がこぞって近代のモダンな洋館を建てたことにより、鎌倉は別荘地となりました。
現在も明治から昭和にかけた建てられた洋館は、文化財として保存され、一部一般に公開されています。その中には1916(大正5)年築の古我邸や1936(昭和11)年築の鎌倉文学館があります。古我邸は現在邸宅レストランとなっています。お高めなお値段ですが、一度は行ってみたいです。
鎌倉の鶴岡八幡宮の裏で起きたおやつ騒動とは?
おやつ騒動とは漢字で御谷(おやつ)騒動で、これは昭和の日本をゆるがした御谷(おやつ)騒動の一つとも言えます。
御谷とは鎌倉住民の聖地であり、鶴岡八幡宮の本殿の裏側北西にあたる場所にあり御谷の森で、御谷騒動の現場はそこにあります。
第二次世界大戦後の日本の経済成長の真っただ中、宅地開発が盛んに行われ、鎌倉でも次々と緑が切り崩され住宅と変わっていきました。そんな中、1964年1月ついに古くから聖地といわれた御谷の森に宅地開発の計画が持ち上がったのです。地元の人たちは、聖地である御谷の森が開発されるとは夢にも思いませんでした。
市民が大反対し神奈川県が計画を差し戻す異例の事態となりましたが、私有地のため県の条例ではお願いすることしかできなかったのです。それまで日本では文化財として美術品や歴史的な建物を守る条例はあったものの、地域を守る法令がありませんでした。反対運動は5日間で2万人を超える署名を集めるほどに拡大しました。その反対運動の中心となった人物が、鞍馬天狗、赤穂浪士、パリ燃ゆなどを書いた昭和を代表する作家の一人、大佛次郎(おさらぎじろう)です。ちなみにペンネームの大佛(おさらぎ)は、鎌倉の大仏の裏手に住んでいたことが由来しているそうです。
大佛次郎は神奈川新聞(1964年8月11日)に「怒る権利」というタイトルの、下記のような御谷の森の開発中止を訴える記事を書きました。
「いい加減に民主の時代にはいってから、かえっていばるやつは、いよいよいばり出した。見て見ぬ振りをするおとなしい人間が多いことをよいことに、腕力、金力、政治的実力の時代になった。怒ることを人がしないからである。」
開発業者と市民の意見は平行線をたどり、とうとう騒動ついに国会でも議論される事態となりました。その結果、歴史的な保存地区は自然と一体で守るというそれまでになかった考えが反映された古都保存法が1966年が制定されました。
1936(昭和11)年築の鎌倉文学館には、御谷騒動のときに名士の方たちが署名した署名簿が残されておりり、この中には文芸評論の神様とも言われた小林秀雄や、日本人初のノーベル文学賞に輝いた川端康成の署名が含まれています
。
鎌倉の仏像巡り3選
長谷寺 十一面観音菩薩像
1300年の歴史を持つ上品に金色に輝く18mの高さの十一面観音菩薩像です。大きなる慈悲に包まれる空間が広がっています。
円応寺(えんのうじ) 閻魔大王像
地獄の裁判官が10体もズラッと並んでいます。武士は人を殺すため地獄に落ちてしまうというが、それでもなお救われたいという願いから、地獄信仰が盛んになり生まれたお寺です。目と口をカッひらいた恐ろしい顔をした躍動感が鎌倉時代ならでは仏像ではないでしょうか。
閻魔大王とは、古代インド神話に出てくるヤマ神が仏教とともに中国を渡り閻魔となりました。ヤマ神は全ての人間の祖先で、誰よりも先に死んだため死後の世界を生み出し、中国にその存在が伝わり地獄の裁判官となったそうです。
建長寺 地蔵菩薩坐像
鎌倉を代表するお寺の一つです。昔ここが処刑場だったため、地獄に落ちる人も助けるという地蔵菩薩がご本尊に選ばれました。
実は地蔵菩薩は閻魔大王のもう一つの顔と言われています。地蔵菩薩は罪人に代わって罪を受ける仏様です。
鎌倉と仏教にまつわる雑学
大盤振る舞いの語源とは?
鎌倉時代は豪華な料理を椀飯(おうばん)とよんでいました。これが現在の「大盤振る舞い」の語源と言われています。
暖簾は鎌倉から始まった!?
中国から伝わった禅宗の中でも最初期に造られた禅寺建長寺をご紹介しました。禅寺のお堂の中で寒さをしのぐために布をさげており、これを暖かい簾(すだれ)と書いて、「のうれん」と呼んでいました。これは中国語の発音であり、その後日本でなまり現在の発音の「のれん」となりました。
現在流行している寺ヨガは、古くから行われていた!?
最近寺ヨガが流行していますが、寺とヨガは歴史的にも深い関係があります。自分自身の心や体の位置を整えるため、ヨガは仏教の修行方法の中に取り入れられました。仏教の瞑想と修行の中でよいと考えられたのです。ヨガは古くはインドのお釈迦様がいた時代から、ずっと行われてきたといわれています。
なお、東京の用賀は、鎌倉時代この地にヨガの道場があったことが地名の由来とされています。
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