“浅草から見て、隅田川の向こう側にある―。”墨田区・向島はその立地から名付けられた地名なのだそうです。永井荷風は『濹東綺譚』の舞台としてこの地を選びました。
そんな向島にあるパワースポットとして知られる三囲神社について、ひも解いていきましょう。
三囲(みめぐり)神社はパワースポット!三柱鳥居に注目!
三囲神社の裏に、諸願成就のパワースポットである三柱鳥居あるいは三角石鳥居と呼ばれる、珍しい鳥居があり、これは三井家から移設されたものです。京都の蚕ノ社(かいこのやしろ)にある三柱鳥居を模したもので、どちらも「水」を守るように建てられています。
三つの鳥居を正三角形に組み合わせた形が特徴で、神様が三方向から通り抜けられる鳥居自体が崇拝の対象で聖域となっており、最近パワースポットとしても有名です。
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蚕ノ社(かいこのやしろ/京都市右京区太秦森ヶ東町)
正式名称は、「木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社」で、その名の由来は、境内に蚕をまつる「養蚕神社」があるためと言われています。
境内の北西隅には「元糺の池(もとただすのいけ)」という神泉があり、現在は涸れていますが、かつては湧水が豊富であったといい、現在も夏の土用の丑の日にこの泉に手足を浸すと諸病に良いとして信仰されています。伝承では木嶋社の社叢(しゃそう/神社の林)を「元糺の森」、神泉を「元糺の池」と称し、下鴨神社の森が「糺の森」と呼ばれるようになる以前、元々は木嶋社の社叢が「糺の森」と呼ばれていたそうです。
この元糺の池の中には三柱鳥居(みはしらとりい、三ツ鳥居/三面鳥居/三角鳥居)が建てられています。これは柱3本を三角形に組み、3方から中心の神座を拝することを可能とする珍しい形式の鳥居で、「京都三鳥居」の1つに数えられています。中央の神座は、円錐形に小石を積み、中心に御幣を立てて依代としています。この鳥居の起源等は詳らかでなく、秦氏の聖地である双ヶ丘・松尾山(松尾大社神体山)・稲荷山(伏見稲荷大社神体山)の遥拝方位を表したとする説などがあります。現在の鳥居は天保2年(1831年)の再興(社伝では享保年間(1716年 – 1735年)の修復)で、安永9年(1780年)の『都名所図会』では豊かな湧水とともに現在と同じ三柱鳥居の様子が描かれています。
この蚕ノ社の三柱鳥居は、現在は柵などで囲われているため近づくことはできませんが、以前は三方向から拝めるようになっていたそうです。
三囲のコンコンさんとは?
拝殿前に三囲のコンコンさんとよばれる石造りの狐が三囲のコンコンさんです。こちらは、1802(享和2)年に奉納された石造りの狐(墨田区登録有形民俗文化財)で、目じりの下がった温和な顔が特徴の石狐です。
甲斐善光寺が所蔵する鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(1147-1199年)の木像のお顔に似ているような気がします。
三井家との関係とは?
三囲神社は、旧財閥三井家と深い関係にある神社でもあります。江戸時代三井家は、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため「三囲は三井を守るもの」と考え守護社にし篤く信仰しました。また三井家の本拠のあった江戸本町からみて三囲神社は鬼門の方角(東北)にありました。敷地内には三井家代々の当主夫妻120柱あまりの霊が神として祀られている「顕名霊社」があります。没後100年を経た霊だけが祀られる特別な場所とのことです。また、三越デパートの各店舗には三囲神社の御祭神が分祀されています。
三囲神社にあるライオンと狐の像は三井家や三越の発展とも縁が深く、現在では「商売繁盛」「金運」のパワースポットとも言われています。ライオンの像の足を触るとご利益があるという話が広まり、参拝客が後を絶ちません。
三囲神社の境内の狛犬のそばのライオンの像は、池袋の三越が閉店の際に、店頭に置いてあった青銅製ライオンの像を2009年に奉納されたそうです。ちなみに、大正の頃に三越呉服店を率いていた日比翁助という人がライオン好きで、三越本店にライオン像を置いたのが、三越のライオン像のはじまりなのだそうです。
旧三井財閥(三越)とゆかりの深い神社であることから、ライオン像や三井邸にあった三柱鳥居(三角石鳥居)のほかに、三越の商標が境内で見られます。
三囲(みめぐり)神社を詳しく
三囲神社の創立年代は不詳とされていますが、社伝によれば三囲神社が向島に社を構えたのは平安時代初期のことのようで、一般的には弘法大師(空海/774-835)が創建したとわれ,創立当時は現在地より北の田んぼの中に祠があったと伝わります。
御祭神は伏見稲荷大社と同じ「宇迦御魂神(うかのみたまのみこと)」で、かつては「田中稲荷」と呼ばれていました。「宇迦之御魂神」は稲荷神社の祭神とされていて、狐の姿の女神としても親しまれています。もともとは穀物の神として崇められていましたが、江戸時代からは五穀豊穣以外にも、農耕の神、商工業の神としても信仰されるようになり、現在では商売繁盛・家内安全・社業興隆・交通安全・火災・災難除け・子孫繁栄・学業成就・芸能上達など、幅広いご利益があると言われています。
三囲神社の名前の由来
南北朝時代の文和年間(1352年~1355年)に近江国(現在の滋賀県)の三井寺の僧侶「源慶(げんけい)」が荒れ果てた祠を見つけ悲しみ再建に着手しました。
再建の際、土の中から右手には宝珠、左手には稲を持ち、白狐に跨る老爺の神像が入った壺が見つかり、どこからともなく現れた白狐がその老爺の像の周りを3度回って去っていったという言い伝えから「三囲(みめぐり)」の名前が付けられました。
三囲神社はお稲荷さん
三囲神社は、東京でナンバー2の稲荷神社で、ナンバー1は王子稲荷、ナンバー3は真崎稲荷です。
お稲荷さんは狐が神様で、動物神はお願いの結果が比較的早いと言われています。動物神にお願いごとをして、願いが叶ったら必ずお礼参りをしてください。忘れてしまうと、お礼はまだ?と督促しにいらっしゃるとか…
老翁老嫗(ろうおうろうう)の石像
元禄の頃、この三囲稲荷にある雨乞いの句碑を守る老夫婦がいました。願い事のある人は老婆に依頼し、狐を呼んでもらいます。老婆は田んぼに向かって狐を呼ぶと、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまったそうです。不思議なことに、他の人が呼んでも狐は決して現れることがなかったそうです。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を募って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。老嫗像には、「大徳芳感」、老翁像には「元禄十四年辛巳五月十八日、四野宮大和時永、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれています。
三囲神社の雨ごい
江戸時代の元禄6年(1693年)、江戸は厳しい干ばつに見舞われました。
松尾芭蕉に俳諧を学んだ俳人「宝井其角(たからいきかく)」が偶然三囲神社を訪れた際に、雨乞いを祈願する農民たちの哀願によって、能因法師や小野小町の故事に倣い、「ゆたか」を頭字に詠みこんだ「ゆふだ(夕立)ちや田を見めぐりの神ならば」と句を神前に奉じました。この句では“三囲(みめぐり)”と“見巡り”が掛け言葉となっていて、神前に奉じた翌日には雨が降り、その霊験は江戸中に広まったと言われています。
隅田川七福神
三囲神社は、「墨田川七福神めぐり」の一社で、鯛を抱え、釣竿をもっている「恵比寿神」と頭巾をかぶり、小槌を持ち、大きな袋(福袋)を背負い、米俵に乗っている「大国神(大黒天)」が祀られています。
隅田川七福神とは、江戸文化年間に開闢(かいびゃく)されました。江戸時代から伝わる参拝方法は、御開帳は元旦から七草(1月7日)の御開帳の期間に、各寺社で神様のご分体をお請けし、集めたご分体を宝船(三囲神社か多聞寺にてお請けする)に乗せていくというものです。現在では御朱印もあるそうです。
「隅田七福神」は、この他に「福禄寿堂」の福禄寿、「弘福寺」の布袋尊、「長命寺」の弁財天、「白鬚神社」の寿老神、「多聞寺」の毘沙門天があります。隅田七福神参りは、どこからスタートしても良いそうですが、現在では交通の便の良い多聞寺からスタートする方が多いようです。昔は、縁起を担いで川下の三囲神社から川上へとさかのぼってお参りする人が多かったとも言われています。
関連リンク
のちに三井財閥となる豪商三井家は、江戸時代呉服(三井越後屋呉服店)と両替商で莫大な財産を築きました。三井家と祇園祭との関係を下記リンク先で説明しています。
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