岐阜県北部にある白川郷は、今年世界遺産に登録されてから30年をむかえる合掌造りの集落です。江戸時代に白川郷の合掌造りの屋根裏で生み出されたあるものが日本の危機を救いました。そして白川郷には黄金伝説もあるのです。今回は白川郷の歴史をひも解いてみましょう。
白川郷 合掌造りの三角屋根の秘密とは?
合掌造りは日本の民家の中でも最高傑作といわれる技術が使われていますが、いつ頃から建てられるようになったかは、詳しいことはわかっていません。現在白川郷に残っている合掌造りは江戸時代に建てられたものもあります。一見シンプルに見える構造の合掌造りですが、細部には驚きの工夫がなされています。
三角屋根は二本一組の巨大な部材で支えられています。これは合掌材といわれ、合掌造りの語源になったと言われています。注目すべきは合掌材の根元の部分で梁(はり)のくぼみに置かれているだけでしっかり固定されていないという点で、合掌材が動くことで屋根にかかる力を逃がし強い風などから屋根を守る仕掛けです。しかし横揺れには合掌材同士が支えあるので強いのですが、縦揺れには弱いため、がかやぶき屋根の中を部材が斜めに交錯する筋交(すじか)い構造とすることでしっかり対策しています。このおかけで強度がたもたれ、特徴的な三角屋根が成り立つのです。合掌造りはまさに高度な建築技術の結晶なのです。
合掌造りの屋根裏が日本を救った!?
合掌造りの屋根裏は、広い空間となっています。白川郷では江戸時代、非常に養蚕が盛んな場所でした。蚕(かいこ)をいかに上手に飼うかという工夫を、家の屋根裏に求めたのです。山間(やまあい)の狭い土地に暮らす白川郷の人々にとって、養蚕は稲作に変わる生活の糧(かて)であり、より多くの蚕を飼うため屋根裏を3層、4層に分けた家も建てられました。さらに三角屋根のおかげで蚕の飼育に必要な窓を取り付けることができました。喚起を行うことで蚕が病気になることを防ぐことができました。白川郷の合掌造りは、当時最先端の養蚕(ようさん)施設だったのです。
これが江戸時代の日本の危機を救うことになりました。江戸幕府を財政破綻の危機に追い込んだ貨幣の流出です。将軍の相談役をつとめた新井白石(あらいはくせき)(1657-1725)の記録には、「徳川家が天下を支配し、海外貿易が始まってから百年あまり、我が国の貨幣は外国に流れ出して、すでに大半がなくなりました。(中略)今後、百年以内に尽き果てることは知者でなくとも明らかです。」(折たく柴の記)。その原因とは、生糸(きいと)です。このころ京都の西陣などで高級絹織物がさかんに作られ、生糸の需要が高まりましたが、このとき国内では良質な生糸がほとんどとれず、長崎貿易を通じ海外からの輸入に頼っており、支払いのために金銀が国外に流出しました。財政破綻の危機に見舞われた幕府は、生糸の国産化を決断しました。そのかなめになったのが白川郷だったのです。白川郷朗生産された生糸は、木箱に入れられ御本山(京都の本願寺)に送られていました。このことから白川郷の生糸は輸入品にも匹敵する品質を誇っていたと考えられるのです。上等な織物は昔から西陣で作ってきたという歴史があることから、海外から上質な糸が輸入される中、白川郷の生糸が採用されたのは上質だったからと考えられます。白川郷の生糸が幕府の推し進める生糸の国産化を支え、日本の財政危機を救ったのです。
江戸幕府は生糸の国産化に成功し、幕末になると生糸は欧米への最大の輸出品となりました。明治時代になるさらに品質を上げ富岡製糸場ができ、明治時代の末になると世界最大の生糸の輸出国になっていきました。その礎を築いたのが白川郷でした。
白川郷 帰雲城の黄金伝説とは!?
白川郷の黄金伝説の始まりは合掌造りが建てられる前の戦国時代に遡ります。
帰雲城(かえりくもじょう)は15世紀から16世紀にかけて、白川郷の辺りを治めた内ケ島氏の居城だったと言われています。天正13年マグニチュード7~8ともいわれる巨大地震(天正地震)が中部地方を襲いました。当時の記録には「飛騨の帰雲では地震で山が大きく揺れ、内ケ島氏たちは皆地下に埋もれて死んでしまった」と書かれています。帰雲城にため込まれた金が、今なお埋もれたままになっているというのです。しかし帰雲城に関する記録はほとんど残っておらず、その詳細は分かっていません。
岐阜県図書館に保管されている飛騨地方一帯を描いた古地図「飛騨国全図」に、帰雲城跡(かえりくもじょうあと)が赤い丸で記されています。その横に保木脇(ほきわき)という地名があり、保木(ほき)とは崖(がけ)のこと指し白川郷の中でもがけ崩れや雪崩が頻発する大変危険な地域です。貴重な金の保管場所に適しません。さらに白川郷の城主内ケ島氏は、より安全な平野部にも城を構えており、わざわざ帰雲城に金を保管する必要はなかったと考えられます。とは言え幻の城として夢やロマンを与えてくれる城です。しかしなぜ、白川郷で金にまつわる伝説が生まれたのでしょうか?
なんと白川郷には六厩(むまや)金山をはじめ、多くの金山が確認されているのです。そして山の中には、砂金を採った跡と考えらえれる水路跡も発見されています。まず石垣などで水路を作り、底のむしろ等を敷、砂金が入った土を入れると土より重い金だけが残るという仕組みだったようです。金が採れた戦国時代、白川郷は黄金郷だったようです。
白川郷の金が名古屋城の金のシャチホコに使われた!?
江戸時代に白川郷を治めていた高山藩の本拠地、岐阜県高山市にある村半には、代々金の採掘に関わってきた家に家宝として伝えられた紋付(もんつき)があるのですが、この紋付には徳川家を表す葵の家紋が施されています。こちらの紋付は、なんと江戸時代の初め1609(慶長4)年に名古屋城の金のシャチホコ用に金を献上した際に、将軍からお礼として与えられた物として伝わっているのです!
さらに紋付を保管していた家に伝わる年代記にも、今から80年ほど前名古屋城の入り口にあった立札(たてふだ)にも、シャチホコに白川郷の金が使われたと書かれたいたそうです(金の鯱の献上者、白川郷六馬厩南部荘兵衛幻西の高札が出ていた)
名古屋城の金のシャチホコの調査を20年近く行っている名古屋城調査研究センターの学芸員(美術工芸)の朝日美砂子さんによると、名古屋城の金のシャチホコの金がどこの金山から来たのかなどの言い伝えが一切ないというのです。名古屋城は太平洋戦争の空襲で燃えてしまったのですが、江戸時代のものとされる金のシャチホコの一部が奇跡的に残されており、現在名古屋城ではシャチホコに使われた金の成分分析など科学調査の計画が進行中ということですので、近い将来名古屋城の金のシャチホコと、白川郷つながりが証明される日がくるかもしれません。
実は名古屋城ができるきっかけは、ある家臣が徳川家康にぜひ名古屋に城をつくるべきですと進言したからなのです。そしてその家臣は白川郷の内ケ島氏に仕えていた人なのです。また当時白川郷周辺の金山を治めていたのは高山藩で、高山藩は名古屋城の築城に参加していました。そのため、白川郷の金が名古屋城のシャチホコに使われた可能性も十分にあると考えられます。
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