秘密結社というと、フィクションの世界ならショッカー、ライブラ、ゼーレ、鷹の爪、現実で有名なのはフリーメイソンやイルミナティ、そしてKKK(クー・クラックス・クラン)です。白人至上主義を訴え、真っ白な衣装と頭巾(ずきん)で顔を隠し、謎めいた儀式を行い、ときに黒人をリンチ、殺害におよぶ組織です。今回はKKKをひも解いてみましょう。
ミシシッピ・バーニング(Mississippi Burnning、Miburn)事件とは?
アミメリカ南部ミシシッピ州ネショバ郡、その中心の町フィラデルフィアは、人口7000人余りの小さな町でその50%が黒人、40%が白人です。58年前KKKによる全米が恐怖に震えるその事件が起きました。
1964年6月21日夜に町を訪れていた3人の公民権運動家が突如行方不明になりました。3人とも20代前半の若者(アンドリュー・グッドマン、ジェームズ・チュイニー、マイケル・シュワーナー)で地元ミシシッピ出身の黒人と北部ニューヨークから訪れた白人2人です。彼らは人種差別に反対し、黒人の公民権(政治参加の権利)を確立する活動のため、ミシシッピを訪問しましたが、車ごと姿を消してしまったのです。
その2日後の6月23日に激しく燃やされた車が郊外の沼地で発見されましたが、3人の姿はありません。何者かが証拠隠滅を図ったのです。首都ワシントンD.C.の連邦政府は公民権団体からの要請で、ジョセヅ・サリバン捜査官をリーダーとする連保捜査局(FBI)の捜査員150人を現地に派遣しました。FBIは海軍にも協力を要請し、500人以上が3人を見つけるべく車の発見現場の森や川を捜索しました。すると黒人の遺体が発見されたのですが、行方不明の若者ではありません。さらに捜索を続けると町のあちこちでなんと8人もの黒人の遺体は発見されたのです。その多くは激しい暴行を受けていました。リンチ殺人が多発しているのに表向きは平穏という、異常事態の町で一体何が起きていたのでしょうか?
被害者が町を訪れた目的は?
1960年代当時、アメリカ南部11の州すべてで独自の人種差別政策が100年近く施行されていました。黒人は専用の場所にしか出入りが許されず、それは学校や電車やバス、待合室さらにはホテルやレストランにまで及びました。特に選挙においては、連邦法により黒人にも選挙権は与えられていましたが、しかし南部では州独自の法律をつくり、ときには脅しや暴力で黒人が選挙に行けないよう仕向けていました。行方不明の3人は、この状況を変えようと北部の公民権団体の支援をうけ、ミシシッピ州で黒人のための活動を行おうとしていました。それを何者かが阻止しようとしていました。さらに町の人は「ニューヨークの奴らが仕込んだ茶番で、ミシシッピの人を馬鹿にして笑っているだれですよ」「もし殺されていたら気の毒だと思いますが、彼らがみずから招いた事ですよ」「世間の注目を集めるための作り話だと思います。もし事実なら自業自得ですよ。」とインタビューに答え、さらにミシシッピ州知事ポール・ジョンソンも「私には3人が殺されたとは思えない。そのような憶測を正当化する州警察の情報も何もない」答えていました。誰もが事件は起きていないという態度でした。白人も黒人もおびえるように協力を拒否したことから、FBIによる町の人々への聞き込みも難航しました。
ミシシッピ・バーニング事件の犯人とは?
3人の失踪から40日後、郊外のダム建設予定地で3人の遺体が発見されました。激しい暴行を受け、射殺されていました。
そして3年後FBIは容疑者を確定し、逮捕・起訴しました。その数は18人におよび、ガソリンスタンド勤務、トラック運転手、牧師、セールスマンなど職業はバラバラで、共通していたのは全員が地元のミシシッピの秘密結社に所属していたことです。それがKKK組織「ミシシッピの白い騎士団」です。
1964年6月21日夜10時半、運動家の若者3人が車で走行中、後ろから3台の車がついてきました。そのうち1台は保安官のパトロール・カーでネショバ郡保安官ローレンス・レイニーとネショバ郡副保安官セシル・プライスが乗っており、この2人がKKK白い騎士団のメンバーでした。集団でリンチし射殺しました。
このとき、主犯格のネショバ郡副保安官セシル・プライスが語ったことが言葉を研究者が記録しています。「君たちはいい仕事をした。ミシシッピは君たちを誇りに思うだろう。この州の立場を外の奴らに知らしめたんだ。だがその前にお前たち一人ひとりの目を見て言いたい、最初にしゃべったやつが死ぬんだ!しゃべる奴は死ぬ、死ぬ、死ぬ」
KKK(クー・クラックス・クラン)組織「ミシシッピの白い騎士団」とは?
KKK組織「ミシシッピの白い騎士団」は,南部各地にある白人至上主義の秘密結社KKK(クー・クラックス・クラン)のうち、5000人もの団員がいる有力な組織です。設立者は逮捕された一人、サミュエル・バウワーズで、日常での表の顔は自動販売機の業者でしたが、秘密の裏の顔は「グランド・ウィザード 偉大なる魔法使い」と呼ばれるリーダーでした。
1960年代のミシシッピではKKKは秘密裏に襲撃し、爆破し、人を殴り、人が中にいようとかまわず家や職場に銃を撃ち放火するということが日常茶飯事でした。
KKK白い騎士団はテロリスト集団ですから、勇気を出して「そんなことをするな」とは「あなたの組組織に反対している」という白人がいれば、今度は彼らが標的になってしまうのです。表向きは善良な一市民として暮らし、裏では白人優位の社会を守るため差別と暴力、恐怖による支配をいとわない、それがKKK(クー・クラックス・クラン)の正体でした。
この事件の恐ろしさは、普通の町の人々が地域ぐるみで暴力を積極的に「良し」としたところにあるのではないでしょうか。
ミシシッピ・バーニング事件の裁判
1967年10月裁判が開廷しました。地元で開かれた裁判に逮捕された保安官、副保安官やを元フィラデルフィア警察官リチャード・ウィルスら18人があらわれました。陪審員は全員地元から選ばれた白人でした。判決は、18人中7人が有罪、いずれも殺人罪ではなく公民権活動侵害の共同謀議という軽い罪でした。
犯人は何を恐れ事件を起こしたのか?
自分たちが大切にしてきた南部の生き方を否定して、包囲しつつある。マイノリティーが増えてきた、州外から人がやってきているということだけではなく、彼らが自分たちの生き方を否定しようとしていると感じていたのではないでしょうか。そしてその邪魔者を消し、また消すことによって自分たちの世界に介入することがどれだけ危険なことかを思い知らせたかったのではないでしょうか。
また犯行の主犯格に治安を守る立場であるネショバ郡副保安官がいましたが、彼らにとってこれほど過激なことをしないと「もう守れない」という追い詰められているという感覚があり、殺人であっても自分たちの信念・心情に則(のっと)ったものと肯定する感覚もあったのではないでしょうか。その相反する矛盾が感覚をエスカレートさせ、より過激なものに駆り立てていったのかもしれません。
普通の人が規模が大きくなると、集団心理が働いて過激な行動を取るという人間の暗部を映し出している例と言えるかもしれません。
KKK(クー・クラックス・クラン)とは?
KKK(クー・クラックス・クラン)は秘密結社なので、表立った活動はしておらず、同じような危機感や・憤りを抱いた人々が非公式の地下のネットワークでつながっているという組織です。もともとは黒人差別から始まり、マイノリティーに対する差別を広げていった白人至上主義(白人ナショナリズム)の代表的な組織です。
1960年代KKKは非常に狂暴化していたといえ、とくにミシシッピ州では人種差別が深刻化していたので、KKKより過激化していたと考えられます。この時期は黒人を差別する集団というよりも、白人社会の価値観や白人の優位性を脅かす相手は敵だと考えていたものと思われます。見方を変えると、この時代は白人の優位の社会が揺らぎつつある時代だったのではないでしょか。
KKKの歴史
KKKの創設期
アメリカ南部の音楽の町として知られるテネシー州ナッシュビルから車で2時間ほど南に人口8000人程の小さな町プラスキがあります。町の中心部、かつての判事事務所の入り口に裏返された銘板が飾られています。かつて表向きになっていた時代は、「クー・クラックス・クラン(KU KLUX KLAN) ここに結成される 1865年12月24日」と読めました。結成したのは20代の若者ジョン・レスター(弁護士)、カルヴァン・ジョンズ(弁護士)、リチャード・リード(弁護士)、フランク・マッコード(地元紙の編集者)、ジョン・ケネディ、ジェームズ・クロウ(綿花ブローカー)の6人です。弁護士や地元新聞の編集者など町のインテリ層で、全員が南北戦争での元南軍兵士でした。
南北戦争(1861年~1865年)は、アメリカ至上最悪70万人以上の死者を出した内戦です。北部23州と南部11州の総力戦は、おびただしい犠牲をだしながら1865年南軍が敗北しました。南部の各地には 北軍の連邦勢力が進駐し、南軍に参加した州が合衆国に復帰し、国家が再建できるよう戦後処理を開始しました。その中にあったのが南部の黒人奴隷の解放です。そもそも南部は黒人奴隷を使い、綿花を中心とした農業で繁栄しました。その400万人に及ぶ奴隷にアメリカ国民の権利としての与える奴隷開放が始まりました。黒人に選挙権が認められ、これまで白人が独占していた南部の政治の世界にに黒人が入ってくることになりました。戦争に敗北したうえ、これまでの白人独占の社会を強制的に変えられることは、南部の白人たちには耐えられない屈辱でした。そんな中プラスキの元南軍兵士の6人がうっぷん晴らしの秘密のイタズラをはじめました。すると他の白人たちの間で話題になり、広がっていきました。それが奇抜な衣装で人々を驚かすイタズラでした。赤と白のストライプ、胸に月と星のデザイン(南軍の軍旗などによく使用されたモチーフ)、マスクは流行が広がるにつれバリエーションが豊富になりました。いずれも昼間の素顔を隠し、グロテスクな見た目で人々を威嚇するためでした。やがて、こうしたうっぷん晴らしは不満を抱えた南部の人に広まるにつれ過激になっていきました。彼らが敵とみなす人々、すなわち南部の社会を変えようとする白人や奴隷から解放された黒人への組織的な暴力へと発展していったのでした。
第一期のKKK
KKKを語るうえで、当時の一般的な白人の黒人の対する暴力行為について考える必要があります。この時代は暴力的な時代で、白人が黒人の暴力を振るうのは当たり前でした。プラスキでKKKが結成された頃、一般白人も黒人への暴力をさかんに行っていました。このふたつにはおそらく関係があり、一部の人達はその両方に関係していたと考えられます。たった6人によるKKK発足からわずかの1年半後の1867年5月には参加者が55万人に達したKKKを一つの組織にまとめる人物があらわれました。それがネイサン・ベッドフォード・フォレスト(将校)で元南軍の英雄で、人気が高い人物がリーダーとなり巨大組織につくりかえたのです。KKKはひとつの組織となり「***の規約(PRESCRIPT OF THE ORDER OF THE ***)」というタイトルの規約書を作成しました。あくまでも秘密結社ですので、KKKとは一切書かれていません。入会の儀式では思想が会員ふさわしいか質問(黒人の平等に反対するか(Are you opposed to negro equity, both social and political)?南部の権利を維持することに賛成するか(Are you in favor of maintaining the Constitution rights of the Sounth)?)を受け、そして裏切った会員は法に基づく究極の罰を受けるなどと記載されています。そして組織と肩書は、かなりファンタジーで、南部14州の帝国においてこの騎士団を統括するのは帝国の「偉大なる魔法使い(Grand Wizard)」と「10人の精霊(ten Genii)」、各地方の王国を担当する「グランドドラゴン(Grand Dragon)」と「(8人のヒドラ(eight Hydras)」、その下の位もまるでファンタジーのような大巨人、ゴブリン、一つ目巨人、大修道士といった肩書が続きます。会員は現実社会とは異なる秘密帝国の一員の気分となります。ネイサン・ベッドフォード・フォレストは「もし有事となれば5日以内に4万人の男たちを派遣することができる」と豪語しました。
ネイサン・ベッドフォード・フォレストは元軍人で、戦前は奴隷商人した。暴力的な人で彼の哲学は暴力と白人至上主義です。彼にとってKKKは戦争に負けて失った南部の名誉や尊厳を取り戻す一つの手段だったのです。
KKKメンバーの暴力はとまりませんでした。1868年ジョージア州ではわずか3か月の間にKKKによって39人が殺害されました。アラバマ州では109件の殺人事件が発生し、3か所の黒人学校が襲撃され、裁判所も放火されました。KKKはそれぞれの地方で過激化の一途をたどりネイサン・ベッドフォード・フォレストの権威でおさえられなくなっていました。
第一期のKKKで重要なことは中央集権ではなかったということです。KKKで起きた人の命を奪うリンチや殺人は特定の指揮して行われたわけではないのです。暴力を振るう相手もその振るい方も違うため上からは統制できなかったのです。
1869年ネイサン・ベッドフォード・フォレストは、KKKは解散しました。ばらばらになったメンバーたちは、個別に北の連邦軍勢力に制圧されるなど、その勢いを失いKKKは消滅していきました。
8年後の1877年に、南部全ての州から連邦軍が撤退しました。南部で黒人の参政権などが認められ、奴隷解放が完了するのを見届けたうえでのことでした。ところが、連邦軍の重しが取れたとたん、南部の各州は黒人の人種隔離制度(ジム・クロウ法)を成立させていきました。のちの1960年代まで続く公共施設の分離や黒人が選挙権を行使できない状況はここから始まったのです。過激な暴力による差別集団KKKが消滅した後にこそ、その後90年に及ぶアメリカ南部の黒人差別社会が固定されていくのでした。
第二期のKKK(KKKの復活)
1920年代は、アメリカで大衆文化が花開いた時代に、KKKが突如復活しました。KKKの会員数が最も多かったのも1920年代で、最大500万人(東京の人口の半分近く)となりました。このころKKKがやっていたのがパレード、フォークダンス、家族で集まる楽しいイベントでした。「絶対秘密、裏切り者には罰を」の決まりはどこやら、一体KKKに何が起こったのでしょうか?
1910年代アメリカはそれまでの価値観が大きく変わる時代を迎えました、ニューヨークには超高層ビルが立ち並ぶようになり、北部アメリカの工業化は目覚ましく発展しつつありました。一方、南部を中心とした農村地帯は経済的に立ち遅れる地域が多く、保守的な農民層の間で不満は募る一方でした。南北戦争で発生した分断の傷は未だ癒されてはいませんでした。そんな中KKKをメインに描いた映画「国民の創生(The Birth of a nation)」が1915 年公開されました。物語の舞台は南北戦争とその後の南部社会です。奴隷から解放され平等な権利を与えられた黒人たちは、日に日に勢力を増し白人女性に結婚を迫ったり、選挙の際白人の投票を拒否したりとやりたい放題。そこに突如馬にのって現れた救世主がKKKです。目だけ出した真っ白な衣裳。秘密どころか白昼堂々「正義の騎士団」として横暴な黒人たちを打ち負かす。物語は南部と北部の白人同士が結ばれハッピーエンドというものです。分断されたアメリカ国民が統合されたのです。この映画は黒人を極端に悪者として描いたことで、激しい抗議や上映禁止運動にさらされましたが、興行は10か月以上にわたるロングランとなり、当時の白人層の気持ちにこたえたのです。そして映画公開中の1915年11月南部ジョージア州ストーンマウンテンの頂上で、炎で光り輝く十字架が掲げられました。KKKの復活です。第二期KKKを創設したのは、教会の牧師のウィリアム・シモンズでした。ウィリアム・シモンズは後のおなじみとなる目だけ出した白装束など、映画「国民の創生(The Birth of a nation)」でのイメージに影響を受け復活させたと言われています。
第一期KKKの理念を継がれて作られたと言われるのが、第二期KKKの規約書「クロラン(KLORAN)」です。この内容で第一期と決定的に異なる部分が入会の際に問われる質問の重要ポイント「あなたはキリスト教の教義を信じますか(Do you believe in the tenets of the Christian religion)?」「あなたはこの国で生まれた生粋の白人ですか(Are you a native-born white, Gentile American citizen)?」です。第一期の重点ポイントである南部への愛郷心と黒人への反発ではなく、白人のキリスト教徒であることを最も重視しているのです。クロラン(KLORAN)の前文には「私たちは創造主によって定められた人類の人種間の区別を認め、白人至上主義(White Supremacy)を忠実に維持し、いかなる妥協にも断固として反対します」と記載されています。彼らが嫌悪感を示したのが、当時急増していたイタリアやポーランド、ロシアなどからやってくる「新移民」でした。これまでアメリカに渡ってきた白人の多くがキリスト教プロテスタントに対して、新移民はカトリック、正教やユダヤ教で、しかも新移民は自分たちの文化をそのまま持ち込みコミュニティーをつくり、アメリカ社会の同化しようとしなかったという点です。ウィリアム・シモンズ達第二期KKKはこれを警戒したのです。彼らは自分たち開拓時代からの白人がとても大きな力をもっていて豊かでいられるのは、生物として進化の最上位にいることを生まれながらに運命づけられていると信じていたのです。したがって、新移民さえいなければあらゆる面で秩序正しく純粋で清潔になるはずと空想抱いたのです。ウィリアム・シモンズは第一期KKKのように暴力で他社を排除するのではなく、みずからが古き良き時代の道徳を取り戻すよう訴えました。ウィリアム・シモンズ著「素顔のクラン」には、「我々の祖先の古きアメリカはいたるところで消え去りつつある。我々アメリカ人は進むべき道を改めなければならない。我々に必要なのは良識と健全なる精神の復興である。我々は前身するのではない、我々は逆戻りsるのである」と書かれています。
第二期KKKは病院や学校建設のための寄付募るなど慈善活動を盛んに行い、そして新たな会員をあつめるため遊園地でのイベントやアクロバット飛行ショー、ドラゴンに立ち向かう騎士をモチーフにしたパレードなど家族連れで楽しめる娯楽イベントを開催しました。そしてKKK復活から10年ほどたった1925年8月に首都ワシントンD.C.で大規模なパレードを開催しました。この頃全米に200支部、会員数500万人の政治勢力にまで膨れ上がっていました。自分たちの社会が変わる不安を抱えた人々が娯楽の楽しさに導かれ、白人至上主義、という差別意識に取り込まれていったのです。しかし当時白人至上主義は規範的なことでしたので、この会員たちは過激な思想を持っていたわけではありません。
1924年アメリカ連邦政府は、移民の年間受け入れ数を大幅に制限する新たな移民法を施行しましたことで、KKKは大きな目標を達成し勢いを失っていきました。急速に会員数を減らしたKKKは、古き良きアメリカに戻る理想を実現できないまま、衰退していきました。
時代背景
第二期KKKに参加していた人々はテロ集団に参加していたというイメージはなかったと考えられます。病院を建設するなど社会的なチャリティーに参加していいことをやっている、自分たちが差別主義者だという感覚はなく、より良きアメリカを守りたいという普通の市民的な感覚で行っていたと感がれられます。そのくらい第一期KKKと第二期KKKの性格が様変わりしました。0歳から100歳までKKKのメンバーがいたと言われており、家族で参加できる秘密結社というのが第二期KKKの姿だったようです。
t社会的なチャリティーなどを行っていますが、その原動力は白人優位な思想や、他の人種や宗教を差別する思想が根底にある点が非常に不気味です。また当時アメリカで科学が急速に発展していて、人種差別を科学的に肯定しようとする動き(優生学(ゆうせいがく)_疑似科学)もありました。「自分たちが白人優位と考えることは科学的にも証明されている」、疑似科学からもお墨付きを得たことで自分たちが罪を犯しているという感覚はなかったのではないでしょうか。
第三期KKK
1960年代はアメリカ国民の価値観が大きく揺らいだ時代です。KKKは三度(みたび)よみがえりました。この時代、KKKが起こしたと言われる爆弾・爆破テロの数は100件以上あり、第二期と打って変わり暴力と恐怖と秘密を絶対とする集団としてよみがりました。1950年代半ばから始まった公民権運動(人種差別の解消をめざす運動)は社会全体を大きく揺さぶりました。ところが、1957年白人が通う公立高校アーカンソー州リトルロックのセントラル高校で黒人生徒の受け入れをめぐり軍隊が出動する騒ぎになりました。社会が変わることを保守的な白人層は拒絶し続けました。こうした社会の分裂にこたえるように復活したのでがKKKです。第三期KKKは全国組織ではなく南部の各州で独自にその名称を名乗りました。とくにアラバマ州のKKKは最悪の活動を活発に行っていました。アラバマ州バーミングハムでは、1950年代を通じて白人居住区に住もうとした黒人の住居などが襲撃されました(ダイナマイトによる爆弾事件はおよそ50件)。1961年アラバマ州アニストンでは、公民権運動家の乗ったバスの窓から火炎瓶を投げ入れ、脱出した運動家たちに暴行を加えました。しかも公民権運動に反対する警察署長ブル・コナーはKKKのメンバーと秘密の連携を持ち見て見ぬ振りをし容疑者は逮捕されても無罪か軽い罪終わりとなることがほとんどでした。何者かが権力者と秘密の結託し、町を見えない恐怖で覆うというのがこの時代のKKKでした。彼がやろうとしようとすることの一部には、恐怖を広めそのために上手く秘密主義を押し通すことがありました。秘密主義でありながら秘密主義であることをマスコミに確実に知らせるというのは、恐怖を広める上では非常に有効な作戦です。
しかしアラバマ州バーミングハム16番街バプテスト教会で起きた事件がアメリカを変えました。1963年9月15日日曜日10時22分にKKKが地下室に仕掛けた19本のダイナマイトが爆発し、日曜礼拝にあつまっていた人々20人前後が負傷4人が死亡しました。死亡したのは11歳から14歳の少女で市民運動への参加すらない子どもたちでした。世間では、残虐な暴力に対する嫌悪感が高まっていきました。そして1964年以降、公民権法(1964年)、投票権法(1965年)が成立すると南部の人種差別政策は撤廃されました。、選挙で黒人有権者にたいする威嚇はなくなり、黒人の投票率は飛躍的に上昇しました。その後連邦政府の捜査や世論の反発をうけ、KKKを名乗る各地の組織は徐々に消滅していきました。
KKKの時代の終焉と今
2005年KKKの時代が終わったことを象徴する出来事が起こりました。
公民権運動家3人が殺害されたミシシッピ・バーニング(Mississippi Burnning、Miburn)事件の容疑者がミシシッピ州ネショバ郡裁判所で改めて裁かれることになりました。被告は元牧師のエドガー・レイ・キリン(80歳)で地元のKKKの中心的な役割でしたが、1967年の裁判では陪審員が彼をかばい無罪でした。40年ぶりの裁判では陪審員(12人の市民)の判断は全員一致、有罪 過失致死罪で懲役60年となりました。この判決に地元の人は「12人の市民(陪審員)が彼を有罪と宣告しました。コミュニティーが変わったことを示す素晴らしい声明だったと思います。完全に公開され、事実が提示された裁判でこの地域にとって精神の浄化でした。まるで町から重圧が取り除かれたような感じでした。」言います。
そして現代では、KKKと名乗る団体に変わり、新たな白人至上主義のグループがあらわれています。2021年1月こうしたグループは連邦議会襲撃事件に参加し、インターネット空間で全米のあらゆる階層が白人至上主義でつながる時代となり全体像は見えません。KKKを生み出した負の感情は、今も生き続けているのです。
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