メキシコでは死者の日(毎年11月1日と2日)は、亡くなった人の魂が現世(げんせ)に戻ってくる日として、国を挙げて盛大にお祝いします。日本のお盆に近い風習ですが、メキシコではとにかくにこやかで明るいのです。
メキシコ人にとって「死」とは何か?メキシコの詩人オクタビオ・パス(1914-1988)は、「メキシコ人は死と頻繁に会い、死を茶化(ちゃか)し、可愛がり、死と一緒に眠り、そして祝う。死はメキシコ人のお気に入りのおもちゃであり、不滅の恋人である」とうたいました。メキシコ人にとって、死とは身近にあり、生きる喜びを与えてくれるもののようです。今回はメキシコの死と生をめぐる不思議な世界をひも解いていきましょう!
生贄(いけにえ)はどこで行われていた?
人身御供(ひとみごくう)という言葉を御存じですか?人間を生贄(いけにえ)にして、神に捧(ささ)げることです。日本でも大規模な建物を造る際、人柱(ひとばしら)という名の生贄(いけにえ)が捧(ささ)げられました。その他、古代イスラエルでは自分の子どもを火の中に投げ入れたとか、古代ケルト人たちは巨大な人型の檻(おち)の中に人を閉いじ込めて焼き殺したなど、生贄文化は世界各国にあったようです。
そして、そのような儀式がおよそ3000年も続いた文明が、近年”世界六大文明(メソポタミア、エジプト、インダス、中国、アンデス、メソアメリカ)”と呼ばれるようになった一つメソアメリカ文明です。
生贄(いけにえ)文化はいつ始まったのか?
一般には、約1万年前の旧石器時代(狩猟採集民の時代)には、動物の頭蓋骨をまとめて埋葬した跡が発見されており、これが最初の生贄(いけにえ)の跡ではないかと言われています。
宗教が発祥して以来生贄は存在すると考えられ、これは「宗教」の「宗」の字にあらわれています。ウカンムリの部分は神殿や社といった聖なる建物を意味し、その中の示すの真ん中の部分が供犠(くぎ)による動物を設置する台座をあらわし、ハの部分が動物から滴り落ちる血をあらわしているとされています。
命を神に捧げるという考え方の根底には、ある個体の中にあるいの命・魂が肉体の破壊によって解放され、他の個体に移って一体化し強化する、あるいは正しい状態にするという、古代人の確信が古い時代から世界中に存在し、「人柱」のような生贄儀礼(いけにえぎれい)を生みだしたと考えられます。生贄(いけにえ)にされた人の魂が、何か・誰かの力になるというのが生贄儀礼の基本的な考え方だったようです。
人間を生贄(いけにえ)にする発想はどこから生まれた?
「贈与論」という考え方があり、人間には「物を与える義務」「受け取る義務」そして「返す義務」があり、そのルールを破った(物をもらいっぱなしにした)場合、物に宿った霊力がもらった人を苦しめるという信念が世界中に共有されています。神や超自然的な力から人間が受け取る恩恵は、人間が返しきれない分量となり、自然災害、飢饉が起こった場合に「聖なる力」が怒りを抱いているのではないかという不安にかられ、人間ができる最も重要な返礼が「命」を捧げるという行為が、人身供犠(じんしんくぎ)に繋がっていったと考えられます。
生贄(いけにえ)文化のあったメソアメリカ文明とは?
生贄(いけにえ)を行っていたころのアステカ王国の首都テノチティトラン(500年前のメキシコシティ)は、湖の小さな島を次々に埋め立て広げた高度な計画都市で、神殿を中心に碁盤の目状に作られ、一説には最盛期には30万人が暮らすほど栄えたと言います。このようなアステカ王国を含む(中央・中間)メソアメリカ文明とは、メキシコとその周辺で次々あらわれた様々な都市文明の総称です。現在、世界四大1次文明(メソポタミア文明、中国文明、メソアメリカ文明、アンデス文明)の一つと呼ばれる、何もないところから生まれ、外部からの影響を受けず、独自に発達した文明です。
紀元前1500年頃からメソアメリカにいくつかの都市国家(オルメカ、マヤ、テオティワカン等)が誕生し栄枯盛衰を繰り広げた。メキシコシティからおよそ40km、標高2200mにあるメキシコ中央高原では、紀元前2世紀頃から7世紀にかけテオティワカン文明(紀元前150~後650年頃)が繁栄、なんと人口20万人を有する巨大都市が築かれていました。まちの中央に造られた太陽のピラミッドを中心におよそ4kmに渡って伸びる幅45mの大通りがあり、その両側には神殿や集合住宅が整然と建ち並ぶ、およそ同じ時代のローマに匹敵する計画都市でした。このように世界の他の文明に引けを取らない高度な文化・技術を持ったメソアメリカ文明で大事にしてきたのが、現代人には異様に感じる儀式、生贄(いけにえ)、人身供犠(じんしんくぎ)の文化なのです。
生贄儀礼(いけにえぎれい)の痕跡とは?
メソアメリカ文明の遺跡には、独自の生贄儀礼(いけにえぎれい)の痕跡が数多く残されています。2004年テオティワカンにある月のピラミッド発掘調査では、12体の人間の遺体が発見され、そのうち10体は後ろ手に縛られ、首を切断されていたことから生贄だったと推測されます。これはピラミッド建設時の儀式で神に捧げられた生贄だった考えられています。
チチェン・イツァ(マヤ文明(900~1200年頃))にある戦士の神殿には、心臓置きとして利用されていた、おなかを上に向けて横たわる人物像(チャックモール)が残されています。おなかの部分に生贄から取り出された心臓がおかれたといいます。チャックモールという名前は、死んだ優秀な戦士に由来し、神への生贄を運ぶと考えられています。このようなチャックモール像は、メソアメリカ各地で発見されており、生贄儀礼の広がりを示しています。
チチェン・イツァ遺跡の10世紀頃の球技場の跡には、メソアメリカ独自の球技の試合結果を描いたレリーフが残されています。レリーフの左側には勝った選手が負けた選手の生首を手にしている様子が描かれています。メソアメリカ独自の球技も生贄儀礼と密接に結びついた神聖な儀式だったようです。
生贄(いけにえ)の儀式が行われた神殿の遺跡とは?
メキシコ合衆国の首都メキシコシティの中心部、アメリカ大陸最大級のカトリック教会”メトロポリタン大聖堂”やソカロ(中央広場)の地下には、大規模な古代文明の遺跡が広がっています。発掘されれたアステカ王国の巨大神殿テンプロ・マヨール遺跡は、14世紀から16世紀にかけて繁栄したメソアメリカ文明最後の王国であるアステカ王国の神殿です。アステカ王国の首都テノチティトランにあった大神殿の跡です。繁栄の絶頂期の建物です。二人の神を祀る神殿は、幅約80m、高さ約50m(15階建てマンションほどもある!)の巨大神殿。1978年電力会社の工事中に偶然発見された遺跡は、現在も調査中です。そして2017年とくに驚くべきものが発見された。650個もの大量の頭蓋骨で、多くは15世紀ころに生贄(いけにえ)のされた人々のもので、側頭部に大きな穴があけられ串刺しにして神殿の正面に幅およそ35mにわたり何千もの生贄(いけにえ)の頭蓋骨が飾られた。その両脇に、高さ約2m近い2つの円柱にも頭蓋骨がびっしりと並んでいた(頭蓋骨の塔)。これらは巨大な祭壇と推測されています。
メソアメリカの生贄文化を研究する ヨロトル・ゴンザレス・トレス博士によると、メソアメリカでは、生贄はどこにでもあった習慣で、ほとんどの村々で多かれ少なかれ同じ習慣を持っており、彼らの社会では生贄は全然悪いことではありませんでした。生贄は彼らの生活様式のひとつだったようです。
生贄となるのはどのような人?
生贄儀礼が広く継承されてきたメソアメリカ文明ですが、神に差し出されるのはどのような人だったのでしょうか?一般的な印象では神に差し出されるのは命を軽んじられている人たち(奴隷や捕虜)が犠牲になったというイメージがありますが、メソアメリカで神に身を捧げるのは、身分の低い人奴隷や捕虜だけではありませんでした。
紀元700年頃マヤで作られたレリーフ(ヤシュチランのまぐさ石)には、マヤの王妃が自らの舌に穴をあけ、その穴にとげのついた紐(ひも)を通し血を流す様子が描かれています。
生贄を必要とする世界観とは?
2001年グアテマラ サン・バルトロ遺跡(マヤ文明)で、紀元前1世紀に描かれたマヤ最古の壁画が発見されました。メソアメリカ文明での”世界の成り立ち”を表しているようです。描かれていたのはメソアメリカ文明の人々の世界感で、世界の中心にある巨大な世界樹(せかいじゅ)があり、そこに自らの性器に棘(とげ)を刺し血液を流す神などの神々が血液を注いでいるというものです。
この世界の四隅と中央には天界と地上、地下世界を貫く世界樹が生えており、宇宙を支えている。我々が生きるこの豊な世界は、神々の血液によって生まれ育まれている。世界は大きな一つの生命体。血液を循環させることで、世界は再生し、力強さを取り戻すのだ。
「世界は神々が血を流すことで始まり、維持されている」という考えが生贄儀礼をささえる重要な世界観なのです。現在私たちは生贄(いけにえ)という言葉を使いますが、メソアメリカ文明の人々は人間が犠牲になる儀式のことを”債務の支払い”と呼んでいました。そして”債務の支払い”にもっともよい方法は儀式のよって神の化身となった人間を殺すことであると思っていました。彼らにとって生贄は農業や世界のあらゆるものを創造してくれた神への返礼だったのです。
神が血を流して作った世界を滅ぼさないよう、今度は人間が血を流して維持していく、つまりメソアメリカでは生贄となる人の死とは新たな世界の創造や宇宙の再生につながることだったのです。生贄による死は残酷で悲しむべきことではなく、新しい世界を再生し続ける、祝うべきことだったのです。
なぜ血が必要なのか?
宇宙はひとつの巨大な生命体であるという考え方が関係していて、人間も神々も血液を独り占めすることなく宇宙全体に循環させることで、宇宙を構成する各部位の自己形成を促していくと考えていたようです。
誰が生贄になるのか?
とはいえ誰だって自分や家族の命は惜しいと考えるため、誰が生贄になるのかをめぐって異なる部族で戦争に発展したこともありました。
事件が起こったのは1323年のメキシコ中央高原にあるテスココ湖です。当時最も勢力を誇っていた都市国家コルワカンに他の土地からメシーカ人がやってきました。新参者のメシーカ人はコルワカンの王に「あなたの娘を私たちの女神にしたいので、譲ってもらえないか」と申し出ました。これを聞いたコルワカンの王は、自分の娘が崇拝の対象になると思ったのかその願いを聞き入れ、コルワカンの王の娘は女神になるという約束でメシーカ人の元へ送り出されました。しばらくの後に、コルワカンの王はメシーカ人の新しい女神を祀る祭りに招待されました。お香の煙、儀式を行う神官、やがてコルワカンの王は恐ろしいことに気が付きました。神官が纏(まと)っているのは、自分の娘の皮だということに気が付きました。コルワカンの王は自分の娘が殺され皮が剥がれたことに激怒し、メシーカ人を攻撃し、戦争へと発展しました。誰が生贄となり血を流すのか、それが一方的に決められれば世界を維持するための生贄儀礼であっても、不満を抱えさせ、争いのもととなってしまいました。コルワカンの王の娘を生贄にしたメシーカ人は戦争に敗れ、テスココ湖の島に逃げ込みました。ここを安住の地と定めたメシーカ人は、都市と建設しました。これがテノチティトランです。のちに生贄切れを独自に発展させ、メソアメリカ最大の王国となったアステカが誕生したのです。
コルワカンの王はなぜ激怒したのか?メシーカ人にだまされたから?娘が生贄になったから?
宗教儀礼はその儀礼をおこなう集団の論理に従ったものです。生贄によって生命が再生するという信念をコルワカンとメシーカが共有していたとしても、それぞれのスタイルややり方はそれぞれの為政者によって定めら得ているので、メシーカが相手にとって理解されるであろうという前提で自分たちの儀礼をおこなったがコルワカン王へのには冒涜(ぼうとく)と解釈されてしまったと考えられます。
また女神にするというのは嘘ではなく、メシーカ人はコルワカンの王の娘を生贄として殺し、神々の母として崇(あが)めたと記されています。メシーカ人には、コルワカンの王の娘を殺すことによって女神のしたという論理があるのです。その意味では彼らは嘘はついていないのです。
往々にして人間社会は「自分たちの論理が他の社会でも通用するもの」と思ってしまい、それによって文化摩擦が生じててしまいますが、現代にも通ずる事ですね。
なぜメソアメリカで3000年も生贄文化が続いたのか?
それは他の文化的代替がなかったためです。アステカの人々は「再生」という目的のために儀式を行い、命をささげました。生贄は彼らにとって「世界を再生」するための方法の一つだと信じていたからです。
生贄儀礼がアステカ王国で発展したのはなぜ?
メソアメリカ最初のオルメカ文明が誕生してからおよそ2500年後、メソアメリカ最大規模の都市が誕生しました。それがアステカ王国です。メキシコシティの地下に数多くの痕跡を残して消滅したアステカ王国では、想像を絶する方法で、神に血が捧げていました。しかしそれはその社会においては必要なこと、全てはこの世界を守るためでした。
メソアメリカ文明最後の王国アステカは石器しか用いなかったにもかかわらず、首都テノチティトランは最盛期には30万人が暮らしたと言われるほど繁栄しました。わずか100年ほどの間に勢力を拡大し、中央メキシコの太平洋沿岸から大西洋沿岸まで支配しました。一番長く王の座に君臨したモクテスマ1世(在位1440~1469)は盛んに外征を行いアステカが強力な軍事国家として発展する基盤を築きました。それは生贄と国家の成長が最も強く結びつき生贄儀礼の規模や意味合いが大きく変化した時代でした。
アステカ王国の成立
合意なき生贄儀礼を行ったことでコルワカンの王の怒りかい追放されたメシーカ人は、流浪の旅をしていた彼らがたどり着いたのはテスココ湖の西側にある小さな島でした。開拓の末、1325年メシーカ人は都市テノチティトランを建設しました。周辺部族と戦争を重ね領土を広げていきました。巨大国家となったアステカを維持するため王は儀礼を独自に発展させていきました。
アステカ暦の(こよみ)では1年は18か月があり、毎月神々に捧げる祭りがひらかれました。多神教国家だったアステカ王国では、信仰する神は雨を司るトラロク、植物再生を司るシペ・トテク、他にも風の神、水の女神、大地の神、塩の女神トウモロコシの穂の神など129もいました。これらあらゆる神々の儀式が行われ、生贄も多く捧げられました。特に重要とされたのが、最も大きな力をもつ神の一人、破壊と創造の神テスカトリポカ祭りでした。テスカトリポカはその身を犠牲にして世界を造ったといわれ、その神話を再現するという祭りでした。その準備は一年前から始まり、テスカトリポカにふさわしい、見た目や肉体的に優れた若い戦士が1人選び出され、祭りまでの一年間、音楽や演説・ふるまいなど神になるための教育が施されました。さらには豪華なテスカトリポカの装束を身にまとい、生きる神として人々に崇拝されます。祭りの20日前には、女神に扮した4人の女性と結婚し、宴を繰り広げます。そして祭り当日戦士は、テスカトリポカの化身として神殿の階段を一人で登り、そして心臓を取り出され、首を切られ、大地に血を流すのです。テスカトリポカ神が命を世界のために捧げるのです。
メソアメリカの人にはあらゆるものに二元性があると考えました。夜と昼、男性と女性、乾燥と湿気、厚さと寒さ、そうした相反する二つの事柄が地続きでお互い影響しあうことで、世界のバランスが取れるという考えです。そのため神の化身となった戦士が生贄となり死を迎えると、彼の精神は宇宙に戻り再生され、新たな戦士と新たな年が始まるのです。
テスカトリポカの生贄は、神が死に新たな世界を作る神話を戦士が再現することによって、その偉大な功績を現世に蘇らせる儀式だったのです。
しかし定期的に捧げていた生贄儀礼が変化する事態が発生しました。
生贄儀礼に変化をもたらした事象とは?
それは穀物を食い尽くすイナゴの大量発生、大洪水、霜害(そうがい)、そして大干ばつです。1450年ころ数年間にわたって異常気象が襲い、大飢饉が発生し、さらには疫病も蔓延し国民の大半が死亡しました。そこで国王モクテスマ1世は、神が喜ぶ素晴らしい生贄がもっと必要だと考えたのです。
神が喜ぶ生贄とは?
深刻な干ばつなどどうしても雨が必要になったときは、とても珍しいケースですが貴族の子どもが生贄にされることもありました。しかし、アステカの人々にとって最も重要なことは、戦争でとらえた勇敢な戦士を生贄にすることでした。彼らはそれが最も価値があると考えたのです。
勇敢な戦士を生贄にすべく、あらたな儀式が始まりました。アステカと隣国との境に、それぞれの勇敢な戦士が集結し、戦争を行いました。武器は黒曜石の刃のついてこん棒で、凄惨な殴り合いが行われました。これは”花の戦争”とよばれ、隣国と合意のうえで代表者によって行われる技術戦争でした。”花の戦争”にはアステカ同様生贄儀礼の習慣があったトラスカラ王国、チョルラ王国、ウエホツィンゴ王国など周辺の都市国家が合意しました。事前に場所と時間を決め、同人数で戦いが行われました。戦いの結果、負けた側は、神が喜ぶ勇敢な戦士として、多くが生贄となりました。この花の戦争で、強力な軍事国家アステカは、たびたび勝利し、神の怒りを鎮めるためより多くの生贄を捧げられるようになりました。やがて神の怒りが収まったのか、干ばつなど異常気象も収束に向かいました。これでもう、大勢の生贄は必要なくなるはずです。
ところが国王モクテスマ1世は、さらに大量の生贄を求め始めました。これをきっかけに生贄儀礼に新たな意味が加わろうとしていました。首都テノチティトランの大神殿デンプロ・マヨールの建設です。1487年に行われた落成式では、時のアステカ王は近隣都市の首長たちも招き大観衆の目の前で、大々的な生贄儀礼を行いました。4日間で捧げられた生贄の数は数千人で、白い漆喰の大神殿が血で真っ赤に染まったと言います。そのとき切り落とされた首は串刺しになり祭壇に飾られ、頭蓋骨の塔となったのです。
大規模な生贄儀礼は何を意味するのか?
宗教的な目的だった生贄儀式ですがこのときは、政治的要素がなかったとは言えません。当時のアステカ王にとっては権力を誇示し、周辺国家を怖がらせるための手段としても使われたのです。神殿の落成式で生贄にされた数千という人数は誇張されていると指摘されています。のちに入ってきたスペイン人が数を多く報告したとも言われていますが、アステカ人自身が誇張していた可能性も否定できません。彼らにとって「私たちはこだけの数の人間を殺し犠牲にすることができる」と数で相手を牽制(けんせい)することが重要だったからです。このように宗教的なものに政治的な目的を混ぜるのは今も昔もいつの時代もあることのようです。
世界を再生するために行われていた宗教的儀礼が、国が成長するにつれその規模が拡大し、新たな目的も加わっていったのです。圧倒的な生贄の数で、周辺国への圧力をかけ国民にたいして支配を強め、生贄儀礼は時を経て王の権力を国内外に誇示する一大ページェント(舞台劇化)となったのです。
リーダーの権限を強めていくためには儀礼を強化していく必要があり、その中で生命を扱う儀礼が元も集団の連帯感を強めていくので、生贄儀礼の拡大と軍事的文化の拡大が一致しているともいえるのではないでしょうか。
アステカ王国滅亡のとき
1519年メキシコ湾にみたことのない船が出現しました。乗っていたのはエルナン・コルテスが率いるスペイン軍500人です。キューバを征服し、新たに大陸を制圧することを目論んでいました。鉄砲をもち、馬に乗り、キリスト教を信仰する人々が上陸してきたのです。メソアメリカ3000年の時を経て、まったくの異文化がやってきたのです。上陸したエルナン・コルテスはアステカの首都テノチティトランに向け侵攻を開始しました。その途中にある人口3万人の都市国家チョルーラでは、無抵抗の住民たちに突然襲い掛かり虐殺し、圧倒的軍事力を見せつけました。しかしテノチティトランに到着したエルナン・コルテス一行はそこで見たものに衝撃を受けました。彼らの目前に広がったのは、その時代のヨーロッパのどの都市にも引けを取らない美しく整然とした町並みです。湖の上に築かれた壮大な都市に圧倒されたのです。時のアステカ王モクテスマ2世(在位1502~1520)は、異国から来たエルナン・コルテスを丁重に向け入れました。しかしモクテスマ2世に案内された神殿でエルナン・コルテスはかつてない嫌悪感を抱きました。生贄から切り取られ捧げられたばかりの心臓、アステカの世界感に初めて足を踏み入れたエルナン・コルテスは、恐怖に震え上がりました。
「神殿の壁は血まみれで、しかもこれが凝血(ぎょうけつ)していたため床同様に黒ずんでいた。神殿内はあまりにも不快な臭気(しゅうき)が漂っており、このまますんなりと外に出られるとは思えないほどだった。」(『コルテス&モクテスマ』モーリス・コリス著)
キリスト教の価値観をもとにエルナン・コルテスは「あなたのように偉大で賢明な王がこうした悪質な代物を神々だと考えていることが理解できない。あれは悪魔だ」とモクテスマ2世を非難しました。これに対しモクテスマ2世は考えたことのない非難に驚き「我々の神は自然の支配者でこの世界を今後も維持するためには、神々が必要とする血を手にいれなければならないのです」と反論しました。初めて出会った二つの文明は全く相容れるとこはありませんでした。
エルナン・コルテスはモクテスマ2世を悪魔に取り憑かれた危険人物だと決めつけ捕虜にして監禁しました。そして邪悪な神を信仰する人々をキリスト教への改宗を口実にアステカ征服を開始しました。しかしアステカ王国は人口30万をようするテノチティトランを始め巨大な軍事力を持っており、わずか500人の兵しかいないエルナン・コルテスはあらかじめ策を講じていました。エルナン・コルテスが目をつけたのはアステカの周辺国です。周辺の都市国家はアステカによる軍事的圧力や生贄儀礼のよる恐怖政治に不満を持ってしたため、エルナン・コルテスは周辺国の人々にアステカをたおす手助けをしようと持ち掛けました。そしてエルナン・コルテスから周辺国の人々は「あなたがたが悪魔の偶像を崇(あが)めているのに対し、私たちは天と地を創造した神を崇(あが)めています。キリスト教へ改宗すれば、あなた方が行っている残忍でおぞましい生贄も悪魔的な祭儀もおわりを告げ、あなたたちを過ちに引きずり込む悪魔を追い払うことができるでしょう。」と一方的な価値観を押し付けられましたが、スペイン軍の圧倒的な軍事力前にこれを受け入れたのでした。こうしてスペイン軍は周辺諸国を味方につけアステカ王国との戦争に突入しました。2年に渡る攻防の末、1521年テノチティトラン陥落し、栄華を極めたアステカ王国は滅亡しました。さらにその3年後、メソアメリカに12年のキリスト教宣教師が到来し、数百万人に及ぶ人々に洗礼を受けさせキリスト教へと改宗させていきました。徹底的な文化破壊でメソアメリカで3000年続いた一次文明は終わり、その世界感の根底に根付いた生贄儀礼も消滅しました。
まとめ
古代の生贄は「死」を全身全霊で受け止めることにたいして、現代の大量殺戮(さつりく)は遠くから爆弾を落とすなど人の死・苦しみが全く見えないことから「死」を見ないと言えます。
現代社会で「死」は非常に限定されたものになっており、現代人間は動物を摂取していたりしますが、「死」の場面が隠蔽されています。「生」と「死」を二元論的に区分して、「生」が善で「死」が悪であったり、「生」が評価されるもので「死」は隠蔽されるもの、見えない領域に囲い込まれるものとして扱われてきました。こうした事実が20世紀の大量殺戮(さつりく)の世紀を作ったと言われています。
生贄儀礼の根本は自分の生命は、自分だけでは存在しない・完結しないというものです。アステカの生贄儀礼が衝撃的ですが、日本でも「人柱」が行われた橋などが残っています。その近くに石碑が残っていたり、その土地の人々が「人柱」の物語をどんなに大事に語ってきたかということを感じてみると、そこにアステカのような生贄儀礼を理解する糸口が見つかるかもしれません。
そして「死」からあまりにも距離を取った現代の文明が、アステカ文明から学ぶべきことが見えてくるかもしれません。
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