當麻寺(たいまでら)が竹内街道の先につくられたのはなぜ?中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説と當麻曼陀羅

近鉄当麻寺(たいまでら)駅から徒歩5分のとことにある知る人ぞ知る名刹(めいさつ) 當麻寺(たいまでら・奈良県葛城市)は、万葉時代からの数々の伝説が残る二上山(ふたかみやま)の麓にある、聖徳太子の弟である麻呂子親王が612年に創建した飛鳥時代のお寺です。

當麻寺の立地やご本尊の秘密や伝説についてひも解いていきましょう!


當麻寺 が竹内街道の先につくられたわけ

當麻寺はなぜこの場所に建てられたのでしょうか?立地に秘密があります。

飛鳥時代、外国の使者が大阪の港(難波津、なにわつ)から竹内街道(日本最古の国道)で飛鳥の都へと向かいました。その途中に立派な三重塔や伽藍のあるお寺をつくって、日本に文化があることを示したそうです(諸説あり)。そのため當麻寺は竹内街道から飛鳥の都へ向かう途中につくられたのです。なお、竹内街道沿いには百舌鳥古墳群古市古墳群があります。

そしてもう一つ當麻寺の立地に秘密があります。下記「當麻寺は西方極楽浄土!?」でご説明します!


當麻寺の入り口は、なぜ山側にあった!?

現在の當麻寺の入り口は東大門であり東側にあります。しかし奈良時代は、當麻寺の入り口は南側、つまり山側にありました。入りにくい山側をなぜ入り口にしていたのでしょうか?

奈良時代は太陽がずっと仏様の顔にあたるようにするため、お寺は全て南向きにつくられていました。そのため當麻寺の南側は山なのですが、南向きつまり山向きに造られました。奈良時代は山の細い道を通ってくると、當麻寺の門があったのです。塔の位置から考えると、金堂の裏側 山手の方にお寺の入り口があり、そこに南大門があったと思われます(現在の本堂は曼陀羅堂ですが、創建当時は金堂がお寺の中心でした)。

そして当麻寺の南側の山には大阪と奈良の県境を通る竹内峠(たけうちとうげ)が通っており、飛鳥の都と大阪の港を結ぶ日本最古の国道「竹内街道」がありました。そのため大阪の港からくる外国の使者が當麻寺の前を通過するということだったようです。


當麻寺 日本で唯一古代から残る三重塔(東西両塔)

江戸時代につくられた當麻寺の入り口である仁王門(東大門)を入ると左側に金堂(こんどう)、右側に講堂(こうどう)が見えます。そして奥に見えるのが當麻寺の中心となる本堂 曼陀羅堂(まんだらどう)です。

講堂前の階段を上り振り返ると、左右に三重塔がきれいに見えます。左側に見えるのが東塔(奈良時代)で、右側に見えるのが西塔(平安時代)です。かつては東大寺、薬師寺にも東西両塔があったのですが、東大寺は2つともなくなってしまい、薬師寺に残っているのも1つのみです。

東塔は奈良時代につくられたもので、日本で4番目に古い塔で、東塔が造られてから100年から150年後に西塔が平安時代につくられました。


當麻寺 舎利容器と言う名のタイムカプセル

西塔を解体修理・調査を行った際に、心柱のてっぺんから飛鳥時代につくられた舎利容器(しゃりようき)が見つかりました。この舎利容器は入れ子(マトリョーシカのよう)になっており外側から銅、銀、金でできていました。一番小さい金の容器(=舎利容器 1cmほど)に舎利(お釈迦様の骨)が入っていました。お釈迦様のご遺体は金、銀、銅、鉄の四重の棺に入れて安置されたと言われていますので、それと同じようにつくられているようです。

この容器にはお舎利だけでなく、これは塔の修理のたびにその時代の色々なもの(飛鳥時代、鎌倉時代、江戸時代、大正時代等)を入れていたそうです。多いのは水晶や布で、どの時代でも必ず入れているものはお金なのだそうです。大正時代は日露戦争の後でしたのでロシアの金貨が入っていたそうです。今回は現在発行されている1円玉から500円玉と今回の写真など修理の資料をすべてSDカードにして容器に納めて塔に戻したそうです。

何百年後にまた容器が開けれられて、「何だこれは!?」となるのだそう。舎利容器の存在は語り継がれるものではなく、後世の人が見つけるという仕掛けになっているようです。


當麻寺 金堂の見どころ

創建当時の御本尊の国宝 弥勒如来坐像(みろくにょらいざぞう、白鳳時代)がいらっしゃいます。681年飛鳥時代の後期につくられた日本最古の塑像(そぞう)で、台座も粘土でつくられています。土の上に漆を塗って、その上に金箔をはっています。

その周りも681年頃につくられた四天王立像(白鳳時代、多聞天は鎌倉時代制作)は、粘土で像の原型を作り、その上に麻布を何枚も漆で張り重ね、乾燥後、内部の土を取り除いて表面を仕上げる脱活乾漆造(だっかつかんしつぞう)です。

四天王像はマントを付けており騎馬民族のようです。顔立ちを観ても日本人よりも目が大きく、彫が深いため中央アジアのソグド人(トルコ、中東から中央アジアに住んでいる方)をモデルにつくられたと言われています。大阪の港と飛鳥の都を繋ぐ街道沿いにつくられたお寺であるため、渡来人(とらいじん)と呼ばれる大陸からの技術者も最初に通る場所であるため、渡来人がさらに外国の方をモデルにつくったと考えられています。

日本にたくさんの仏様がいらっしゃいますが大抵鼻の下にひげあるのですが、あごひげの仏様はほとんどいらっしゃいません。このあごひげは、布をこよりのようにして作られていて立体感があります。


當麻寺は西方極楽浄土!?

極楽浄土は西方極楽浄土といわれ西の方にあると言われます。飛鳥や藤原京に都があったとき、ちょうど真西にあたるのが當麻寺および二上山です。當麻寺は奈良盆地の西端に位置し、夕日が毎日二上山に沈んでいきます。特にお彼岸の中日(3月と9月)には、雄岳と雌岳の間に日が沈むということで、極楽浄土を連想する絶景のロケーションが當麻寺の立地でした。


當麻寺 當麻曼陀羅に描かれた西方極楽浄土とは?

曼陀羅堂は天平時代につくられた国宝で、この中に美しい織物の當麻曼陀羅(たいままんだら)- ご本尊があり、當麻曼陀羅には、阿弥陀さまや観音さまがおられる西方極楽浄土の光景とともに、一人一人の心を調える瞑想法が説かれ、この世に極楽浄土のような調和の世界を築く教えが壮麗に描かれています。

– 中心で仏様がお話をされていて、その周りをたくさんの菩薩様が囲んで、仏様のお話を聞いて修行をしています。仏様の後ろには建物があり、さらに空があり、そこからは常にきれいな音色が聞こえてきます。仏様の前の方には池があり、池にはたくさんのハスの花が咲いています。よく見るとハスの上に小さな菩薩様が座っています。私たちが極楽に行くことを「往生をする」と言い、「往生をする」ときはこの池の花の上に生まれます。私たちも極楽浄土に行けるのだよと伝えています。-


當麻寺 當麻曼陀羅とは?

奈良時代763年に中将姫(藤原豊成の娘)が一夜で織りあげた曼陀羅が當麻曼陀羅だと言われています。中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説では、夏に花が咲くハスの茎から糸を取り出し、その糸を使って綴織(つづれおり)という織り方で織りあげたそうです(今でいうタペストリー)。曼陀羅堂の當麻曼陀羅は、室町時代の文亀年間(1505年)につくられた文亀本(ぶんきぼん)(重要文化財)と呼ばれるもので、原本の當麻曼陀羅ではありません。原本の織物を精巧に写しとったもので、大きさも原本とほぼ同じ4メートル四方の大画幅の重要文化財です。約500年前の写しがつくられた頃には原本の當麻曼陀羅(国宝)は限界でしたので、あまり触らずに、當麻寺で大切に保管されています。

また、写しをつくる際、綴織(つづれおり)でつくれたらよかったのですが、すでに日本の文化では綴織は衰退してしまい、室町時代には織り方もわからない、織れる人もいないという状況であったため、筆で模写としてつくられました。2003年に現代の技術でよみがえった、綴織當麻曼陀羅(平成版)が2023年1月1日から1月9日まで特別公開されました。


當麻曼陀羅をお納めしている曼陀羅厨子(天平時代)も国宝で、高さは5mある木造漆塗りで六角形の御厨子です。御厨子がのっている須弥壇(しゅみだん、鎌倉時代)も国宝で、夜光貝(やこうかい)の螺鈿細工が施されています。夜光貝は日本にはない貝で、現在でいうと東南アジアのあたりの貝ですので、とても貴重なものだったはずです。この須弥壇は源頼朝が寄進したものです。奈良は平家によって破壊されつくしたので、奈良を再建していったのが鎌倉幕府でした。當麻寺には當麻曼陀羅があり、武士であっても救ってくれるので、多くの人が當麻曼陀羅に帰依し源頼朝もその一人であったということです。


中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説とは?

中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説と共に日本中に語り継がれたため、當麻曼陀羅は有名になりました。中将姫伝説とは、どのようなものなのでしょうか?

中将姫は、貴族の藤原家のお姫様でした中。将姫の実のお母さまが亡くなり、新しく来られたお母さまとはうまくいかず、命を狙われるようになったため、逃れるように當麻寺にお越しになられました。當麻寺で仏様の教えと出会い、お母様のいらっしゃる極楽浄土を一心に織り上げたのが、當麻曼陀羅です。白雪姫のようなお話ですね。


中将姫伝説はなぜ有名になったのか?

当時、男女の差があり女性が救われるのはまれ理だという時代でした。そのような時代に中将姫が當麻曼陀羅を織り上げ、極楽浄土に行かれたことは当時の女性にとって希望でした。そのため當麻曼陀羅と中将姫伝説は日本中に伝わっていきました。鎌倉時代から語り継がれ、中将姫伝説は浄瑠璃や歌舞伎などで演じられる人気の演目になりました。

鎌倉時代には當麻曼陀羅の写しを當麻寺でつくり、大きなものから小さなものまで日本中のお寺に配りました。小さなものはお坊さんが背負って、日本中の辻々でそのお話をされて、仏様の救いを説いていかれたそうです。


當麻曼陀羅人気がわかる建物とは?

曼陀羅堂(国宝)を知ると、當麻曼荼羅の人気ぶりがわかります。當麻曼陀羅が多くの人に信仰されたため多くの人が訪れたため、曼陀羅堂は増築に増築を重ねた珍しい建物です(これが理由で国宝に指定されています)。①奈良時代に當麻曼陀羅のある内陣を建造され、②平安時代に人が集まるお堂(外陣、げじん)を増築しましたが、それでも狭かったため、③鎌倉時代に外側にもお堂を広げました(①と②の建物を覆うように③が建てられているので、外壁部分は鎌倉時代の建物)。


當麻寺 かぶって歩ける阿弥陀如来像!?

曼陀羅堂にある阿弥陀如来立像の中は空洞になっており、仏様の御衣の裾の部分から足だけ残し、上にズボッと抜け、仏様の中に入(かぶ)れるのだそうです。ちなみに仏様の胸の部分にある卍部分がのぞき穴になっています。

曼陀羅堂から100m橋を架けて、橋の上を渡る練(ねり)供養という行事で使用されました。曼陀羅堂が極楽浄土で、橋の向こう側がこの世で、この世にいらっしゃる中将姫を仏様、菩薩様が迎えにいくというものです。

現在は鎌倉時代のお面をつけ練供養を行っているということです。


當麻寺 蜂が口からでる金剛力士像!?

當麻寺の入り口、仁王門(東大門)は江戸時代に造られたもので、仁王像も同じころに造られました。約30年前から仁王像(金剛力士像 阿形 – こんごうりきしぞう あぎょう)に口から二ホンミツバチ(日本の固有種)が出入りしはじめ、巣を作ったそうです。それがどんどん大きくなり、金剛力士像 阿形の口からたくさんの二ホンミツバチが出入りするようになり、金剛力士像の目が黒くなってしまうなどしたため、二ホンミツバチにはお引越し(殺生はしません!)をしていただき、なら歴史芸術文化村(奈良県天理市)で修復することになりました。像は撤去時50kgあったのが、巣を撤去後15kgになったそうです。


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