祇園祭の山鉾(やまほこ)にタペストリーがなぜ装飾として使われているのか?

祇園祭は、平安時代前期の869(貞観11)年に八坂神社の神輿を迎えて災厄が取り除かれるよう祈った御霊会が始まりとされ、時代の変遷と共にさまざまな要素が加えられるようになりました。

祇園祭で有名なのが山鉾巡行(やまほこじゅんこう)です。

山鉾(やまほこ)は、山鉾とは、釘は一切使わず縄だけで組んだ木組みの山車のことです。山鉾は豪華な装飾や懸装品(けそうひん)を纏っており、祇園祭ではこのような山鉾が全部で33基登場します。祇園祭のハイライトともいわれるのが、山鉾が列をなして町練り歩く山鉾巡行(やまほこじゅんこう)で、市内の中心4kmの道のりを進みます。山鉾巡行の様子は、豪華絢爛まるで絵巻物のようで、「動く美術館」とも称されます。

祇園祭の山鉾を飾る懸装品をよく見ると、海外からやってきたものばかりで300点もあります。しかも中国やイスラム世界そしてヨーロッパまで世界中にいたるところからきた一級品ばかり!1000年以上続く伝統の祭りにも関わらず海外の一級品が使われているのでしょうか?


祇園祭の山鉾(やまほこ)にタペストリーがなぜ装飾として使われているのか?

豪華に飾りつけられた祇園祭の山鉾は、荒ぶる神を喜ばせ、町を災厄からまもりたいという願いが込められています。その山鉾が町練り歩くことで、町中が祓い清められると考えられています。そして祇園祭の山鉾を守り継いでいるのは、町(ちょう)と呼ばれる、いわば町内会です。この町内に住む豪商が、タペストリーなどのすばらしい芸術品を山鉾の懸装品としてのです。

江戸時代、京都商人は金があるだけでは周りの人に認めてもらえず「目利き力」も必要で、これがないと尊敬してもらえませんでした。山鉾の懸装品で自らの「目利き力」を見せていたと考えられます。

しかし、江戸時代は日本は鎖国していたので、簡単に海外の芸術品(天竺物と呼ばれる渡来品)を入手できるとは思えません。


タペストリーはどのように日本に入ってきたのでしょうか?

海外の芸術品は徳川家を経由して、日本にもたらされました。江戸時代、オランダは長崎に商館を置いており、日本との貿易が許されていました。オランダは貿易を許された見返りとして、タペストリーやその他美術品などの一級品を、しばしば将軍や幕府に献上していました。オランダは貿易を許された見返りとして、高価な贈り物をしなければなならなかったのです。


タペストリーはどのように商人の手に渡ったのか?

徳川家に多額の献金をした商人たちは、献金に対しての見返りとしてもらったことがわかります。徳川家からの拝領品には、お掛物(掛軸)やタペストリーなどの海外の芸術品も含まれていたことがわかっています。よって、祇園祭の山鉾の懸装品のタペストリーも、徳川家からの拝領品として町衆の手に渡ったと考えられます。


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