京丹後市に残る浦島太郎伝説。網野町には浦島子や乙姫を祀る神社が多数あり、浦島太郎に関する伝承が色濃く残されています。このほかにも、浦島太郎が竜宮城から帰り着いたとされる万畳浜や乙姫を祀る福島神社があります。
浦島太郎は本当の話!?原文と真実とは?亀の正体は…
私たちがよく知る浦島太郎の物語は、いじめれていた亀を助けるというものですが、これは明治時代の童話作家の巌谷小波(いわやさざなみ)が発表した『日本昔噺』がもとになっており、子ども向けにアレンジされて国定教科書に掲載され、広まったものです。それ以前は、まったく別の話でした。
奈良時代に編纂(へんさん)された日本初の正史である『日本書紀』に、478年に「管川(つつかわ)の浦嶋子」こと浦島太郎が登場します。管川とは地名で現在の本庄のことです。古い地名は神社の近くの川「筒川(つつかわ)」名前として残されています。
浦嶋子が亀を釣り上げたところ、妖気が漂い浦嶋子は居眠りをしてしまいます。浦嶋子が目を覚ますと亀は美しい乙女の姿に変わっていたのです。心を打ち明けられた浦嶋子は、乙女に心を惹かれて一艘の小舟で長い船旅をすることになります。2人は蓬莱山(ほうらいさん)に向かいました。蓬莱山とは、海の彼方の不老不死の世界「神仙郷(しんせんきょう)」です。この物語は、日本の思想を元にできた話ではなく、中国の神仙思想(しんせんしそう/中国古来の神仙を信仰し、不老不死などを願う思想) 道教(どうきょう)が元になって出来た話です。
もともとは「管川(つつかわ)の浦嶋子(うらのしまこ)」と呼ばれており、浦島太郎になったのは、室町時代に入ってからなのです。
『日本書紀』以外にも、奈良時代末期に成立したとみられる『万葉集』、鎌倉時代末期から江戸時代にかけて成立した短編集『御伽草子』や『丹後国風土記』逸文(ここでは水江浦嶋子)で、浦島太郎の伝説が伝えられています。
浦島太郎の時代背景とは?
この時代を物語るものが京丹後市網野町に古墳として残されています。全長198mを誇る網野銚子山古墳(あみのちょうしやまこふん/5世紀初頭)です。日本海側最大の前方後円墳です。この古墳に眠るのは、このあたりの港を掌握していた人物と考えられています。丹後には網野銚子山古墳を筆頭に日本海三大古墳とよばれる大型古墳、神明山古墳(5世紀初頭)、蛭子山古墳(4世紀中頃)が存在します。
丹後地域は弥生時代の後期から古墳時代の前期にかけて、非常に大きな古墳や(赤坂今井墳墓などの)墳墓など、有力な遺跡が多く見つかっています。このことから、丹後王国があったという説があります。1998年にこの王国のスケールを物語るものが出土し、江山文庫(与謝郡与謝野町)に保管されています。大風呂南墳墓群(おおぶろみなみふんぼぐん)の大風呂南墳墓(大和政権が成立する直前の弥生時代後期)から出土したガラス釧(くしろ/腕輪)です。日本で唯一の青い釧です。そもそも日本のものではなく中国大陸から海を渡ってやってきた物で、宝物として扱われたようです。当時の日本には大型のガラス製品を作る技術は、まだなかったといいます。古代の丹後は大陸と濃厚な交渉があり、首長間同士の交渉の中でこういった物の一緒に丹後にもたらされたと考えられます。海の王の証といえるのではないでしょうか。また、
この墳墓には貿易でもたらされた鉄剣が11本も出土しています。同じ時代、大和などではほとんど見つかっておらず、一つの墓の埋葬品としては日本最多です。丹後は後の中央政府になる大和や河内(かわち)の経済と武力の基盤に必要な鉄を供給しているので、鉄のサプライチェーンの拠点が丹後半島だった可能性があります。
この大陸との交易を通じ一大勢力を築いた丹後王国、そして浦島の物語には密接な関係があるのではないでしょうか。たまたま漁師として話が残っていますが、遠くまで行って帰ってこないという話は、遠くの方とやり取りをして、みんなが忘れた頃に帰ってくるという、もしかしたら漁ではなく遠くの方と何か交渉(鉄の入手等)をしていた可能性もあるのではないでしょうか。
浦島太郎伝説に関連する神社
嶋児(しまこ)神社(京都府京丹後市網野町浅茂川)
八丁浜は、浦嶋子が竜宮城から帰ってきて玉櫛笥を開けたといわれる海岸です。この八丁浜の西端、浅茂川漁港に隣接する小さな丘に、浦島太郎を祀る嶋児神社があります。昔からこの地域の漁師はウミガメがあがってくるとお酒を飲ませて海に返すという習慣がありました。1901(明治34)年に神社のそばに大きなウミガメがあらわれ、このウミガメにお酒を3度飲ませても海に帰らなかったことから、乙姫がウミガメに姿を変えてきたのではないかと考え、亀塚として納めたそうです。
神社の脇(灯台付近)にある自然の干潟は「釣溜(つんだめ)」と呼ばれ、ここに浦嶋子は 自分が釣った魚を放していたといわれています。ちなみに、浦嶋子は不老長寿とともに豊漁の神様でもあることから、ここで魚を捕ることは良くないこととされています。
福島神社・西浦島神社
嶋児神社の左遠方に見える福島と呼ばれる小さな島は、浦島太郎と乙姫がはじめて出会った場所といわれています。福島は、恋愛のパワースポットとして人気で、ハート型の岩をスマホの待ち受けにすると素敵な出会いがあるとか♪福島で浦嶋子と乙姫は逢瀬を重ねていたも言われています。
この福島という島そのものが御神体とされる社で、乙姫を祀られています。社殿や鳥居などは一切ありません。具体的な神名は無く、あくまでも民俗として伝承主体の社かと思われます。『丹後国風土記』逸文においては「亀比売」と記されています。
網野神社(京都府京丹後市網野町網野)
水江浦嶋子神(みずのえのうらしまこのかみ)として、浦嶋子を祭神として祀っているという神社です。
六神社(京都府京丹後市網野町下岡)
六神社も浦嶋伝説ゆかりのお宮で、境内から八丁浜がよく見えます。網野町市街地から南西外れの山裾、かつての「下岡村」に鎮座する社です。網野神社の神職さんの兼務社のひとつのようです。
浦嶋神社(伊根町/いねちょう)(創建825年)
伊根町本庄浜にある創建825年の浦嶋神社には、古くから伝わる掛け軸「浦嶋明神縁起」には、浦嶋の物語が一目で物語がわかるように描かれています。また、町時代に作られたという亀甲紋玉櫛笥(玉手箱)が残されています。
江戸時代に人気者になった浦島太郎
江戸時代になると浦島太郎は(300年以上)長生きした人物として人気者になり、まわる時間の長さを競うコマ遊びにも例えられ、舞鶴市郷土資料館には浦島太郎の顔と亀の甲羅がコマで描かれている浮世絵が残っています。
江戸時代、コマを長く回せば長生きできるとされ、「寿命くらべ」よばれ親しまれたそうです。
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