伊達政宗がスペインに慶長遣欧使節を派遣したのは、徳川幕府転覆のため!?伊達政宗は眼に眼帯をしていなかった!?

かっこいいと人気の武将 伊達政宗は、若いころから天下を狙っていたそうです。徳川幕府転覆計画を立てたという噂もあるようで、その徳川幕府転覆計画と伊達政宗の頭蓋骨からわかることについて、ひも解いてみましょう!

伊達政宗はスペインに使節を送るために造船した船とは?

伊達政宗が47歳のときに造船を命じた西洋式帆船サン・ファン・バウティスタ号は全長55mあり、同じ時代の日本の船菱垣廻船(約30m)と比べると、倍近い大きさです。当時このような西洋型の帆船で総重量500tを超えるものを造ったのは、全国の大名でも伊達政宗だけのようです。1613(慶長18)年に伊達政宗が自分の使者をヨーロッパへ派遣しようと思って造船させました。

伊達政宗の使者が慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)です。石巻から3か月かけて太平洋を横断し、現在のメキシコに渡り、さらに海を越えヨーロッパに渡りました。使節はスペイン国王(フェリペ3世)やローマ教皇(パウロ5世)に謁見し、伊達政宗からの親書を直接手渡しました。


伊達政宗がスペインに使節を送った目的は?

その目的は、ヨーロッパとの交易のためです。全国の商人たちが集まって貿易をやろう、その一つのハブ(中心)の港、いわゆる太平洋貿易のひとつの中心基地をつくろうとしたと言われています。

伊達政宗の徳川幕府転覆計画とは?

15世紀後半からのさまざまな史料を保管しているスペインのセビリアにあるインディアス総合文書館にヒントがあります。インディアス総合文書館の本棚全部の横幅を足すと8km以上の距離になもり、探検家コロンブス直筆の手紙をはじめ4万点を超える貴重な史料が保管されています。この膨大な史料の中に17世紀初め、日本の慶長遣欧使節のメンバーからスペイン諮問機関にあてた手紙が含まれており、伊達政宗が徳川幕府転覆計画を立てたのではないか?と言われる文書があります。


それは、伊達政宗の命を受け日本から使節団に同行したスペイン人宣教師ルイス・ソテロが書い手紙で、その中に「奥州の王である伊達政宗は、幕府から迫害されている30万人のキリスト教徒を集結させ徳川幕府を攻撃する。(スペインに)支援をお願いしたい。」と書かれています。当時世界最強と言われた無敵艦隊を要するスペインは、圧倒的な海軍力を武器に世界中に植民地を広げ、太陽の沈まぬ国と呼ばれていました。このスペインに対し伊達政宗は幕府転覆のために軍事同盟を結ぶことを願いでたというのです。

ヨーロッパを巻き込み徳川幕府を倒そうする伊達政宗の壮大な野望!とも思えますが、ルイス・ソテロは自分の個人的な願望を書いているだけだろうと言われています。貞山公治家記録(仙台藩の公式の記録)には、「スペインの基地の様子を検察し、幕府の許可を得てスペインを攻撃して乗っ取る」と記載されているのです。



どちらにしても、慶長遣欧使節はスペインとの交渉は成功しませんでした。スペインはキリスト教の国なので、キリスト教を広めてくれなければ貿易はしないと明言していました。徳川幕府は、伊達政宗が慶長遣欧使節を送る前にすでにキリスト教を禁止しています。スペインはすでにその情報を得ていたようで、あまり相手にされず交渉は成立しなかったようです。

伊達政宗は眼に眼帯はしていなかった!?

独眼竜として知られる伊達政宗ですが、亡くなる際の遺言の中に「親からいただいた体の一部を失ったのは親不孝である。よって死後画像等には必ず両眼を備えよ」と残したことから、現在残る尊像、画像等を見ると両眼備わっています。

貞山公治家記録(仙台藩の公式の記録)には、伊達政宗が幼い頃病気で片面の視力を失ったことが書かれていますが、どこにも伊達政宗が眼帯を使ったという史料は残っていません。実は伊達政宗の眼帯をしている姿は、映画や大河ドラマで広まったイメージで、フィクションだったのです。


伊達政宗の頭蓋骨からわかる顔の特徴とは?

瑞鳳殿資料館に1974年の瑞鳳殿の発掘調査で出土したものを、実物大でつくった伊達政宗頭骨模型が展示されています。この頭蓋骨からわかるのは、

伊達政宗は、切れ長の目をしていた

伊達政宗は、ガッチリとしたアゴだった

眼窩(がんか、眼球が収まるくぼみ)の形状に特徴がある

①まず、左右の眼窩で高さが違うことが、顕著な形で見て取れるます。眼窩の高さは左目は5mm、右目は36.5mmと2mmの差があります。通常、左右差は1mm程度で、2mmまで達していことはほとんどありません。成長期の段階で右目の視力を失った影響で右目が使えないから、視力を失った当時のまま、もしくはあまり発達しない状態で維持されていた可能性があります。逆に左目はしっかりと動かしていたので、左右の差が大きく出たのではないかと考えられるそうです。

②また、目尻の靭帯(じんたい)がつくところは、左は明確にありますが、右にはありません。よって、右目はほとんど動かしていなかったと考えられ、幼少のときに失明したという可能性が非常に高いと考えられます。貞山公治家記録(仙台藩の公式の記録)は事実であった可能性が非常に高いと考えられるということです。

 


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