最澄が最も重んじ、多くの僧侶を引き付けた教えが、「すべての人が成仏できる」でした。今の仏教ではみんなが救われる、みんなが仏の世界に行けるというのが考え方ですよね。実はこの教え、奈良時代で画期的でした。当時主流だった教えは、すべての人が成仏できるわけではなく、仏教は国家を守るためのものでした。
それでは、最澄と比叡山延暦寺の歴史をひも解いていきましょう。
比叡山延暦寺に最澄が籠ったのはなぜ?
最澄(766/767-822)が若いころ、多くの飢饉や災害が起こり、多くの人が救いを求めていました。しかし、当時の仏教は国家を守るためのものでした。これに疑問を抱いたのが僧侶としてのエリートコースを歩む最澄でした。最澄20歳のときに新たな教えを確立するために比叡山に籠りました(諸説あり)。
最澄は当初は比叡山に縦2間(げん)、横5間の小さなお堂に仏様を祀り、12年間一度も山を降りることはなかったと言います。この小さなお堂が、比叡山延暦寺の東塔エリア 根本中堂の始まりで、最澄が12年間山を一度も降りることがなかったことから始まったのが、現在でも比叡山延暦寺の西塔エリアで行われている修行「十二年籠山行(じゅうにねんろうざんぎょう)」に繋がっています。
比叡山延暦寺の東塔エリア 根本中堂の詳細
比叡山延暦寺 東塔エリアにある有名な不滅の法灯は油断大敵の語源!実は不滅の法灯は消えたことがある!?そして、根本中堂は最澄の教え「照千一隅」と「忘己利他」を視覚化している!
十二年籠山行の詳細
比叡山延暦寺の西塔エリアに、比叡山で聖域とされる場所がある!最澄は今も浄土院の奥の小さな御廟いらっしゃる!
今でも大切にされている最澄の教え
法華堂(ほっけ堂、別名にない堂といわれ、西塔エリアにあるお堂)に巻物がいくつもあり、真ん中の8巻が、最澄がもっとも重視した経典である法華経です。その中には一仏乗(いちぶつじょう)という文字が何度も出てきます。一仏乗とは、1つの大きな乗り物という意味で、「仏あるいは迷いのない世界、心安静な世界には、皆さん大きな1つの乗り物で絶対に行ける、全員成仏できますよ、全員仏になれますよ」と書いてあるのです。
最澄が国に直訴し、比叡山延暦寺から僧侶を輩出することができるようになった!
比叡山延暦寺の最澄のもとに、次第に弟子が集まるようになりました。最澄は比叡山に集まった僧侶の記録「天台法宗年分得度学生名簿」を残しました。この記録には、不住山(山に定住しなかった)という文字が多く見られます。不住山とは、山に住まず最澄のもとをはなれた僧侶のことで、比叡山離れる僧侶が多くいたのです。
その理由は、当時正式な僧侶として認められるには、戒(かい)という規律を寺から与えられる必要がありました。しかし、戒を与えることができる寺は、国が認めた筑前観世音寺、奈良東大寺そして下野薬師寺の3か所のみでした。そのため比叡山からは正式な僧侶を輩出できなかったのです。最澄は比叡山でも戒を授けられるよう国に働きかけ、そして戒の仕組みそのものを変えようとしました。当時戒を得られたのは、世俗を捨て出家した人だけでしたが、これを出家しなくても得られるようにと訴えました。すべての人が救われるという考えからの行動でした。最澄は国に、比叡山をこれまでとは全く異なる寺として認めてもらおうとしたのです。
しかし当時、力をもっていた奈良の僧侶は、「自分勝手に規則と作って、朝廷に提出している(顕戒論より)」と強く反発します。最澄は彼らを説き伏せるため、「すべての人は成仏できます。この戒こそあらゆる人のための、最も尊いものです(顕戒論より)」など次々と反論を提出します。さらに朝廷の官僚たちとも交渉をし支援を求めました。最澄が亡くなる前日に朝廷から勅許が下り、死後に戒壇院(かいだんいん、東塔エリア)建立され、朝廷に働きかけてから4年後比叡山延暦寺でも受戒(じゅかい)できるようになったのです(要するに奈良の仏教から独立した)。
比叡山延暦寺で正式に僧侶第一号が出たのは最澄が亡くなったあとで、最澄は57年をかけて比叡山延暦寺の礎を築いたのです。
戒壇院は、天台宗で「正式な僧侶」となるための「受戒」の儀式をするお堂で、儀式は年に一度行われるのみで、僧侶にとっても中に入れるのは生涯に一度だけとされる特別な場所です。後に各宗派の開祖となる法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)らも、この場で誓いを立てました。
最澄は革命を起こし、比叡山延暦寺は次々と法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)など人々に幸せをもたらす革命児を輩出したのですね。そして比叡山延暦寺が輩出した祖師(開祖)の像を各宗派の方々が比叡山延暦寺の東塔エリアにある大講堂に納めています。今でも比叡山延暦寺 最澄から始まったという考えが現れていると思います。
最澄の死後どのように比叡山延暦寺が拡大したのか?
比叡山延暦寺でも正式な僧侶になれることから、次第に人気が高まっていきました。また最澄の弟子たちが中国などにわたり、最新の教え、経典や書籍をどんどん持ち帰ってくるようになり、比叡山延暦寺は当時随一の大図書館となっていきました。仏教の総合大学となったのです。今も昔も資格が取れるというのは、重要なのですね!
平安時代になるとさらに仏教が広まり、平安後期以降、仏教は一般の人たちにも広く伝えられるようになりました。なぜならば、この時代多くの争いが起こり、世の中が荒れてくると、人々には救いが必要になったにです。
法然は、ただひたすらに念仏を唱えることで救われると説きました。
日蓮は、題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで救われると説きました。
たくさんの人々を難しい修行なくして救うということを始めていったのです。
平安時代の比叡山延暦寺には、悪僧が増えた!
しかし、平安時代に悪僧(あくそう)が増えていきました。
武力を持つ
都に出て武器をもち徒党組んで、人々から物を奪い、ときには首を切る、祇園で神輿を担いで群れ、神仏の力を利用して自分たちの要求を押し通そうとする僧侶まで出てきました。
比叡山延暦寺が拡大しつつある平安時代は約3,000人もの僧侶が集まりました。そうなると弟子、下働きする人、俗人の従者を含め、1万人近い人が暮らしていた可能性があります。増えるということは、内部に違う流派ができるということも意味し、抗争を引き起こす面もあった可能性があります。そうなると、個々に武力を持って、秩序を乱す僧侶が登場する可能性もあります。
また、武力は延暦寺が生き残るためにも利用されました。武士が台頭し、自分の身は自分で守る時代が始まっていたのです。古代は国家の祈りをしていれば、国家が経済的にも保護をしてくれましたが、中世になると経済的に自立することが求められたのです。自分たちは比叡山延暦寺を守る理由があるという論理を使って、自分たちの武力で邪魔者を排除しようとする。次第に武士をも脅かす力を持つようになっていったのです。
現代の私たちも、神仏の力を利用されてはかないませんよね…
財力を持つ
比叡山延暦寺は武力以外の力も持つようになっていました。比叡山延暦寺は莫大な財力を手に入れていたのです。
『明月記』には、「出挙(すいこ)で富を得て、悪事を働く者が山に大勢いる。」と記されています。出挙とは、金や米を貸し付けることです。比叡山延暦寺は、なんと金融業も始めていたのです。貸出先は、農民、武士、貴族で、不法な金利の取り立てまでは始めました。お金の取り立てには(時に)武力も行使したと考えられます。出挙は、もともと貧しい人たちを助けるため善意ではじまったものでしたが、本来の延暦寺における物や銭の貸付の実態が少しずつ変化していったのです。
鎌倉時代には 京都の金融業者のおよそ8割が延暦寺の関係者になっていました。山に集まった武力と経済力、延暦寺は強大な権力を手にしたのです。
この後、織田信長による焼き討ちがありましたが、織田信長の敵方に味方したため焼き討ちにあった、あるいは織田信長が敵を打つためには、比叡山延暦寺を焼き討ちして敵を攻略する必要があったため焼き討ちにあったという説があります。織田信長がいない今となっては、なぜ比叡山延暦寺が焼き討ちにあったのかは、推測するしかありませんね。
最澄の時代から伝わる不滅の法灯の火が消えてしまった!
1571年の織田信長による焼き討ちにより、最澄の時代から伝わっていた不滅の法灯の火が消えてしましました。比叡山延暦寺の僧侶は法灯復活に向けて色々と考え、不滅の法灯の炎を文灯した先があることに気付いたのです。
最澄の弟子 円仁(794-864)が建てた立石寺創建時に延暦寺から譲り受けた法灯がありました。江戸時代以前で文灯したと文書が残っていたのは立石寺だけだそうです。不滅の法灯は延暦寺と立石寺の2か所にあったのです。
比叡山延暦寺の不滅の法灯については、下記リンクにてご確認いただけます。
比叡山延暦寺 東塔エリアにある有名な不滅の法灯は油断大敵の語源!実は不滅の法灯は消えたことがある!?そして、根本中堂は最澄の教え「照千一隅」と「忘己利他」を視覚化している!
立石寺の法灯の物語
織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちの50年ほど前、実は立石寺の法灯が消えてしまったのです。戦国時代、山形でも度重なる戦乱が広がっており、「立石寺は何もかも破壊され十年余り住む場所もない」と『円海置文』に記されています。僧侶は洞窟で暮らし、日々のお務めもままならない状態でした。そこで立ち上がったのが立石寺の若き僧侶 円海でした。円海は立石寺の法灯復活のため、延暦寺から明かりを分けてもらうことを思いつきます。しかし、旅費の工面、道中の安全の確保が必要です。当時、山形から延暦寺まで莫大な資金が必要で、簡単なものではありませんでした。円海は地元の領主に資金援助の手紙を書き続けました。さらに各地の大名に道中の安全をお願いをしたと言います。そして、ついに円海は延暦寺から法灯を分けてもらうことができました。山形へは船で日本海を渡らなければなりません。円海が日本海を渡ったのは10月の上旬あたりで、ちょうど台風などがやってくる時期です。「北の海の船で、数度の嵐に見舞われた」と『円海置文』に記されており、航海は苦難の連続だったといいます。そしてとうとう立石寺に不滅の法灯が戻ったのです!
比叡山延暦寺の不滅の法灯が復活!
しかし28年後、今度は比叡山焼き討ちで比叡山延暦寺の法灯が消えてしまいました。
このとき比叡山延暦寺は立石寺に頼ることにしました。一通の手紙が立石寺に届き、老増となった円海が受け取ります。円海72歳で人生2度目の法灯を運ぶ旅に出ることになりました。そして無事、天正17年初冬 円海が比叡山延暦寺に明かりを返還し根本中堂の常灯が掲げられました。
比叡山延暦寺の僧侶が書いた『豪盛置文』には、「円海と立石寺のますますの繁栄と幸運を祈りたい。」とに記されています。
そして立石寺や円海だけでなく、最澄の教えを受けた多くの僧侶たちが比叡山延暦寺の復興に力を尽くしました。江戸幕府の保護を受けるようになって、比叡山延暦寺は富や土地の必要がなくなっていき、純粋に人々のために祈るお寺になっていったのです。
まさに恩は人のためならずですね。個人的には比叡山延暦寺が分灯を行うのは、このような背景があり多くの人の幸運を祈りたいとい思いがこもっていると思います。
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