三浦按針(ウィリアム・アダムスの日本名)に関する海外からの反応とは?江戸時代に徳川家康の家臣には外交顧問として青い目のサムライがいた!

江戸時代の日本には三浦按針(本名ウィリアム・アダムス)という、イギリス人のサムライがいました。そして現在の日本があるのは、三浦按針(本名ウィリアム・アダムス)のおかげと言うこともできるのではないかと思います。

今回は、三浦按針(本名ウィリアム・アダムス)について、ひも解いていきましょう!

三浦按針(ウィリアム・アダムスの日本名)に関する海外からの反応とは?

海外の人気歴史サイトKINGS & GENERALSが三浦按針について取り上げた動画「William Adams : Story of the English Samurai in Japan」を公開しました。これは、徳川家康の家臣となった三浦按針(本名ウィリアム・アダムス)の歴史的重要性を紹介したもので、彼の存在なくして今の日本はなかったであろうことがよく分かる内容になっています。

欧州出身のサムライがいたという事実に、海外から「当時の日本人の偏見のなさに驚いた」「 将軍 徳川家康に仕えた白人のサムライの存在に衝撃を受けた」、「当時(江戸時代)の日本人の偏見のなさに驚いた」などと、海外からは多くの絶賛の声や、反応が寄せられていました。


三浦按針(ウィリアム・アダムスの日本名)はなぜ日本にやってきた?

日本はまさに戦国時代1564(永禄7)年 上杉謙信と武田信玄の第5次 川中島の戦いと同じ年にウィリアム・アダムスはイギリス南東部のジリンガムという小さな田舎町に生まれました。12歳の時に腕利きの船大工ニコラス・ディギンズに弟子入り、船大工の修行をするとともにに航海術も学びました。

1598年のオランダの貿易会社のアジア遠征にウィリアム・アダムスは参加し、1600(慶長5)年3月16日豊臣政権下にあった豊後国臼杵うすき(大分県臼杵市)にたどり着きました。


三浦按針(ウィリアム・アダムスの日本名)はどのように徳川家康と出会った?

臼杵(うすき)にたどり着いたウィリアム・アダムスたちの処遇をゆだねられたのが徳川家康です。このとき徳川家康は59歳で、まだ豊臣政権の五大老の一人でしたが、この2年前の豊臣秀吉の死後に急速に勢力を拡大し、豊臣秀吉の後を継いだ豊臣秀頼を差し置いて政の実権を握っていました

徳川家康はウィリアム・アダムスらの尋問をしたのち、ウィリアム・アダムスに小型船を一隻造ってほしいと依頼しました。ウィリアム・アダムスはこの依頼を受け、伊豆国の伊東で日本人の船大工と共同で西洋式帆船(約80トン)を完成させました。


三浦按針(ウィリアム・アダムスの日本名)はなぜ徳川家康の家臣となった?

伊東に見学にやって来た徳川家康は、たいそうご満悦でウィリアム・アダムスをほめたたえ、今後は側近として常に側にいるように命じました。以来ウィリアム・アダムスは好奇心旺盛な徳川家康に西洋の学問や技術を教えるブレーンとなりました。

ウィリアム・アダムスは、なぜ三浦按針という日本名と侍という立場を手に入れたのか?

その後ウィリアム・アダムスは徳川家康からもう一隻船を造ってほしいと依頼され、前回よりも大きい約120トンのサン・ブエナ・ヴェンツーラ号を建造し、完成すると日本の海岸線沿いを航行し測量を行い、海図も作成しました。徳川家康はウィリアム・アダムスに異例の褒美を授けます。それが旗本という武士の身分です。侍となったウィリアム・アダムスには大小の刀と、三浦半島の逸見(へみ)約250石が所領として与えられたのです。そして、この地名にちなんで三浦半島の航海士という意味で三浦按針(あんじん)と呼ばれるようになったのです。


家康の外交顧問 三浦按針の最大の功績は、スペインの日本侵略を止めたこと!

三浦按針は航海士などの経歴と幅広い知識をかわれて、徳川家康の外交顧問を務めるようになりました。

1611(慶長16)年に来日したスペイン使節セバスチャン・ビスカイノが徳川家康にスペインの鉱山技術を提供すると申し出ると、徳川家康はその見返りとしてキリスト教布教の許可と江戸湾作量の許可を与えました。それを知ったウィリアム・アダムスは、徳川家康に「スペイン人が江戸湾の測量をする目的は、いずれ大艦隊を率いて侵略するためです。私の母国であるイギリスならば、他国による海岸の測量は絶対に許しません。」と進言しました。しかし、徳川家康は今更断るのは面目が立たないし、たとえ攻め込まれても対抗する兵力は十分にあると納得しませんでした。

それでも三浦按針は「宣教師を送り込んでその国の民衆をキリスト教に改宗させその後スペイン人がキリスト教徒と共謀して国を乗っ取るのが奴らの策略なのです。」と必至に徳川家康に訴えました。これに心を動かされた徳川家康はスペインとの外交に消極的になり、翌年1612(慶長17)年に徳川家康が直轄地でのキリスト教禁止令を発布しました。この家康の決定にはウィリアム・アダムスの助言が大きくかかわっていると考えられます。

もしウィリアム・アダムスこと三浦按針が徳川家康をいさめていなければ、南アメリカのインカ帝国(1533年スペインに征服され植民地となった)などのように、スペインの植民地となっていたかもしれません。

 


コメント

タイトルとURLをコピーしました