聖徳太子は国造りと外交に仏教を活用した!?遣隋使が隋に提出した国書は大智度論(だいちどろん)を典拠としている!隋の皇帝煬帝は実は大して怒ってなかった!?

聖徳太子は、仏教で国造りをしようとしました。聖徳太子が行おうとしたのはそれだけではありません。聖徳太子は隋と対等な外交をするためにも仏教を活用したのです。

その背景をひも解いていきましょう!

倭国と中国の外交・交流の歴史

倭国と中国の間で行われた国家単位の交流は、3世紀 卑弥呼の時代まで遡ると言われています。倭国は三国志で知られる王朝 魏に絹織物など貢物を差し出したという記述が「魏志倭人伝」に残っています。また5世紀に倭国は中国に何度も使節を送っており両国は活発な交流をしています。しかし6世紀に入ると倭国内部で政治方針の対立から争いが起きるなど国内情勢が悪化したため、多額の経費がかかる中国との交流は6世紀に途絶えてしましました。

一方、中国では589年に隋が中国全土を統一し、絶大権力を誇る王朝を築き上げていました。600年の遣隋使は大国隋と友好関係を築こうとするものでした。海を渡って中国にいくのも大変な時代から、外交がおこなわれていたのですね。


第1回遣を使の派遣は失敗したため、日本書紀に記載されなかった!?

遣隋使は600年に初めて隋に派遣されましたが、日本書紀に記載はありません。

しかし中国の歴史書『隋書』に以下のような短い記述があります。

隋の皇帝文帝(ぶんてい)が倭国の風俗を訪ねたところ、倭国の使者は「倭の王は、天が兄で日が弟にございます。夜明け前に出て政務をとり、日が昇ると政務をとめ弟に委ねます。」と答えた。これを聞いた文帝は、わざわざ夜中に政(まつりごと)を行い、日が昇ると仕事をやめてしまう「はなはだ義理無し(不合理)、すぐに改めなさい」と、あきれ果てたそうです。

研究者の間では600年の遣隋使は認識されていました。しかし戦前戦中の教科書は日本書紀に則(のっと)って教科書が作られていたため、日本書紀に記載のない600年の遣隋使は教科書に記載されていなかったのです。日本書紀編さんの際は、文帝から「義理なし」と注意をうけたため、省かれた可能性があります。また、「夜に政務を行う」という使者の発言は、倭国の状況とも一致していないため、通訳に問題があった可能性もある言われています。

隋の皇帝文帝にあきれられてしまうとは、対等な外交は望めそうにもありません…


聖徳太子による新たな国造りの開始!

倭国の摂政 聖徳太子は、帰国した使節から報告を受け、隋から馬鹿にされない立派な国を造ろうとしたのです。目指すのは皇帝を頂点とする隋に習い、天皇を中心とした秩序のある国造りです。隋をモデルにした聖徳太子の改革が始まったのです!

603年:冠位十二階を制定し会議の制度を整えた

聖徳太子は冠位十二階を制定し会議の制度を整えました。天皇に授けられる位に応じて冠の色が12色に分けられ、一目で地位の高さがわかります。聖徳太子が冠位十二階を制定した背景には、各地の豪族たちの存在がありました。豪族は武力や財力を背景に、中央政府である朝廷にも強い影響を及ぼしていました。そこで聖徳太子は、冠位十二階を制定し、天皇を頂点とする明確な身分秩序に豪族を組み入れ、彼らを天皇のために働かせようとしたのです。

604年:役人の心構えを示す憲法十七条を制定

聖徳太子が制定した憲法十七条には、「和を以(もっ)て貴(たっと)しと為す。」 というものがあり、聖徳太子は争いごとが絶えないため、和の大切さを人々に示しました。また、聖徳太子は「詔(みことのり)はつつしんで受けとめなさい。」を憲法十七条に入れました。詔とは天皇の言葉を表します、ようするに聖徳太子は、天皇に従うよう命じたのです。

聖徳太子はあの手この手で、制度や法令を整え天皇中心の国づくりを進めていきました。第1回目の遣隋使派遣で、隋の皇帝文帝にあきれられてしまいました。第2回目の遣隋使の派遣で、汚名返上できるのでしょうか?


第2回目の遣隋使が携えた国書で隋の皇帝の嫌を損ねる!?

倭国(わこく)は、聖皇帝文帝徳太子の指揮の基、隋をモデルケースに急速に国家としての呈を成していき、607年聖徳太子は2回目の遣隋使の派遣を行います。このとき一行を率いたのが、小野妹子でした。

中国の歴史書『 隋書』に「607年倭国の王が使者を派遣して貢物を献上してきた。」と記載があります。このときの隋の皇帝は、第2代皇帝は煬帝(ようだい)でした。小野妹子が携えた国書に目を通し、「日出ずる処(ところ)の天子が日没する処の天子に書を送ります。」という書き出しに煬帝は大いに機嫌を損ねました。通説では、下記のたとえに問題があったとされています。

・日出ずる処=東にある倭国は上り調子の国

・日没する処=東にある隋は落ち目の国


聖徳太子は『大智度論(だいちどろん)』引用した!?

国書に込められた仏教への深い敬意、その一

しかし近年、上記の通説に異論が唱えられています。国書では、当時広く普及していた仏教書『大智度論(だいちどろん)』から「日出ずる処」と「日没する処」を引用したという説です。当時の『大智度論』の知名度からいっても、国書の「日出ずる処」「日没する処」の典拠(てんきょ)は、ここにあるといってもおかしくはないのだそうです。

『大智度論』の一節には、「日出ずる処は是れ東方、日没する処は是れ西方、日行く処は是れ南方、日行かざる処は是れ北方」とあります。単に東、西といっては国書としては曲がないので、仏典の表現を使って飾ったというのが実情と考えられます。『大智度論』の称呼に、優劣の価値判断が伴っていないことは明らかです。


国書に込められた仏教への深い敬意、その二

実は、煬帝が不快感を示したのは、隋の皇帝と倭国の君主を、それぞれ天子と同じ立場のように表現したことに理由があると言います。しかし、この天子もあくまで、仏の教えの前では隋も倭国もないという仏教的な文脈で使用された言葉と考えられています。

実は、国書には仏教への深い敬意が込められていたというのです。そもそも仏教とは紀元前5世紀頃インド北部でブッタが開いたもので、その教義は、苦の輪廻からの解脱を目指すことで、アジアを中心に広まりました。倭国には6世紀の中頃朝鮮半島から伝来したと言われており、現在にも奈良県にある明日香寺は日本で最初の本格的な仏教寺院と言われています。

飛鳥寺の日本最古の大仏像について、詳しくはこちらから!

日本最初の本格的な仏教寺院にある日本最古の大仏と、奈良の大仏について

煬帝は、小野妹子が帰国する頃には怒りの鉾を納め、小野妹子に使者を同行させ友好的な外交関係を続けようとしたのです。国書に込められた仏教への敬意に気付いたのでしょうか。当時の隋は朝鮮半島の高句麗と敵対していたので、煬帝としては海の向こうの倭国を仲間にしておきたい思惑もあったのでしょう。第2回目の遣隋使の派遣はうまくいったようで、隋との対等な外交ができそうです!


聖徳太子は外交のために仏教を導入!?

聖徳太子は、中央集権国家を構築するに際し、人々に共通した道徳や価値観を持たせる上で、仏教は好都合だと考えていました。聖徳太子は、国家プロジェクトとして仏教を普及させていき、憲法十七条にも「篤(あつ)く三宝を敬え、三宝とは仏・法(のり)・僧(ほうし)なり」と、仏教について記しました。

しかし聖徳太子が仏教を重要視したのは、国内統治のためだけではありません。隋との外交も念頭においていたのです。当時、隋は大々的に仏教の推進政策をとっており、国事として長安に大興善寺(だいごうぜんじ)を建立したり、教えを広めるために僧侶を役人登用したり、全国に仏舎利塔を建設したりしたいました。聖徳太子は、仏教を重んじる隋と共通の価値観を持ってこそ円滑な外交が可能となると考えていたのです。

私は英語をイギリスで学んでいたときに、言語にはその国の宗教や歴史が大きく反映されていると感じました。現在でも、宗教が戦争の原因となることもあるくらい、宗教は重要なものです。聖徳太子は、すでにそれを見抜いていたのかもしれません。

 



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