奈良の大仏こと東大寺の盧舎那大仏は、1998年12月に世界遺産に登録された「古都奈良の文化財」の中の一つです。奈良の大仏は、18世紀中頃に疫病・災害・政変が重なった時代に天皇と民が力を合わせて造られました。コロナ禍の今だからこそ大仏について、ひも解いてみましょう!
大仏には定義がある!?
まず、大仏には定義があることを御存じでしょうか?
大仏の定義とは、丈六物仏より大きい仏像を大仏という。ようするに、大仏とは、一丈六尺(約4.8m)の仏像(坐像はその半分の大きさ)のことをいいます。
一説にはお釈迦様の身長が一丈六尺(約4.8m)あったとされることから、一丈六尺が定義となっているとのことです。大きさで偉大さを表しているのです。
日本最初の本格的な仏教寺院にある日本最古の大仏とは?
日本で初めての本格的な仏教寺院は、奈良よりも前に国の中心だった現在の奈良県明日香村にあります。庶民は竪穴住居に住んでいた時代の、596年に蘇我馬子により創建されたと伝わる飛鳥寺です。飛鳥寺は日本に仏教が伝わってわずか50年後に建てられたと言います。推古天皇の摂政 聖徳太子が仏教で国を治めていこうとしていた時代と考えられており、当然のことだったのかもしれません。また、諸説ありますが、推古天皇、聖徳太子と蘇我馬子の共同発願により造られたともいわれています。
飛鳥寺には、銅造 釈迦如来坐像(飛鳥大仏)があります。奈良の大仏より150年前の609年に造られた日本最古の大仏です。造立(ぞうりゅう)当時は全身金に覆われ黄金に輝く姿だったといわれており、そのお顔は、高く通った鼻筋に、大きく開かれた目、面長で口角が上がっており、これはアルカイックスマイルと考えられます。アルカイックスマイルとは、古代ギリシャの彫像に特徴的な口もとに微笑みを浮かべた表情で、シルクロードを通って明日香村まで伝わったのではないでしょうか。
像高は、2.75mで渡来系の仏師 鞍作止利(くらつくりのとい)作と言われています。 鞍作止利の代表作は、法隆寺金堂「釈迦三尊像」です。
日本の神様は姿がない時代です。金色に輝く外国の神様、わからないものを視覚的にあわらし、仏教のすごさを伝える役割があったのではないでしょうか。宗教は目に見えないものだから、可視化することが重要だったのです。
仏教の導入は、仏教の道徳感によって国民の共通のルールをつくり、国をまとめて中央集権国家にまとめて行ったと考えられます。蘇我馬子は外交にすぐれた人物で、諸外国に遅れをとってはいけないと仏教を導入し先進国の仲間入りをしようとした可能性が考えられます。
この時代の聖徳太子については、下記リンク先でお読みいただけます!
聖徳太子は大智度論(だいちどろん)を読み、隋との外交に仏教を活用した!?
世界遺産の一つ奈良の大仏の概要と、奈良の大仏が歩んだ道
1300年前に京に都がおかれる前、国の中心として栄えたのが奈良です。奈良と言えば鹿ですが、奈良時代に春日大社の神様が常陸国から御蓋山へお越しになる時、白鹿にお乗りになって来られたことから、春日神鹿は神様のお供であり、神の使いとして大切に扱われるようになりました。現在、奈良公園を中心に約1300頭の鹿が住んでいるそうです。
世界遺産となった奈良の大仏の話にもどしましょう…
18世紀中頃に創建された東大寺に、大仏様が鎮座する大仏殿であります。江戸時代に造られた大仏殿は、縦50m横57mほどで、世界最大の木造建築です。建物中央の唐破風(からはふ)の下ある観相窓(かんそうまど)があり、年に数回、元日や8月15日の万灯供養会などに開扉し、大仏殿の外から大仏様のお顔を拝むことができます。
奈良の大仏概要
国宝 盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像(奈良~江戸時代)像高14.98mで、お顔だけでも5m以上あります。銅約500tと金約440kgなどで造られたとされており、創建当時は全身が金色で輝いていたそうです。盧舎那仏は、知恵と慈悲の光を遍く照らす仏で、釈迦如来の別名ともいわれます。
手のひらを前に向けた右手は、「施無畏印(せむいいん)」と呼ばれ、様々な恐れを取り除くという意味があります。手のひらを上にした左手は「与願印(よがんいん)」と呼ばれ、願いを叶えるという意味があります。金色の光背(こうはい)は、仏から放たれる光をあらわしたもので、この光背には化仏(けぶつ)と呼ばれる小さな仏は、当初536体あったと伝わります。
大仏様の座る蓮華の花びらの台座には繊細に描かれた仏画が見えます。これは「蓮弁に描かれた蓮華蔵世界」という仏様の住む理想の世界です。なんと美しい…
奈良の大仏を造ったのは誰?
第45代聖武天皇(在位724-749)が奈良の大仏を、当時の仏師 国中公麻呂(くになかのきみまろ)に任じて造らせました。735年~737年に天然痘が大流行し、この苦しい状況が良い方向に向くようにと、大仏がつくられたと考えられています。当時疫病・災害・政変が重なり、人口の1/3が亡くなったといわれており、仏教の教えをもとに国を鎮めようとしたのです。
聖武天皇のこだわりポイント
聖武天皇は、東大寺を建立するだけの財力がありましたが、国の平和を祈るために天皇と民が力を合わせて奈良の大仏をつくることにしました。
「一本の草や一握りの土でもよい、自発的に協力しようという者がいれば、共に廬舎那仏を造ろうではないか」大仏造立の詔(みことのり)
これに対し当時の人口の半分(約260万人)が、この東大寺建立プロジェクトに参加したといわれています。奈良時代の国家の一大プロジェクトで造られた東大寺は、大仏殿はもっと大規模だったといわれており、正面幅は約88mもあったそうです。また、境内には七重の塔もありました。
聖武天皇は自分の意志のみでできることを、あえて国民を巻き込んで東大寺建立することを選んだのは、疫病・災害・政変におびえている民を安心させる目的があったのではないかと私は思います。
大仏の現在の顔と造立当初の顔は異なる!?
大仏殿は2度戦火で焼かれ、その都度大仏様も修復されてきたため、ところどころに色や質感が異なる部分があります。現在の体には奈良時代、鎌倉時代、江戸時代と主に3つの時代が伝えられています。お顔は江戸時代の修復で造り直されたもので、造立(ぞうりゅう)当初は今とは違うお顔だったと言われています。
大仏造立当初のお顔とは?
奈良時代の大仏様はどのようなお顔だったのか、そのヒントがあるのが東大寺の建物の中で一番古い建物である法華堂(三月堂)です。法華堂(三月堂)は、奈良時代と鎌倉時代が融合した貴重な建物です。そして、その中には奈良時代に造られた四天王や金剛力士など貴重な仏像があり、すべて奈良時代からそのままの姿で残されていると言われています。仏像は、「乾漆(かんしつ)造り」といって、漆で麻布を貼り合わせたり、漆と木の粉等を練り合わせて造形する技法でで造られている 木彫りに比べ細やかな造形を生み出しやすいのが特徴です。
この時代の仏像の特徴が写実性で、写実的に表すには乾漆(かんしつ)造りは非常に適しした方法です。しかし漆は貴重であり高価でですので、平安時代にはこの技法はほとんどなくなってしまいます。当時、国家が造寺造仏の推奨で国家予算が組まれ、東大寺の中に官営の工房があり予算が十分にあったことから、貴重な技法で仏像をつくることができたのですね。
法華堂(三月堂)の御本尊は、8本の腕を持つ不空羂索観音立像(ふくうけんさくかんのんりつぞう、奈良時代)です。下から2番目の左手に持っている羂索(けんさく)は苦しい人々を救うためのもの、合わせた手の間には水晶が挟まれています。頭に頂く冠は、宝冠(ほうかん)といい水晶、翡翠、琥珀、真珠など一万数千の宝石で飾られた豪華な造りとなっています。こちらの観音様を作った人物は、奈良の大仏と同じ国中公麻呂(くになかのきみまろ)と言われていますので、奈良の大仏のお顔も、こちらの仏像のお顔と似ていた可能性が考えられます。
平安時代の火災
しかし、平安時の末の源平合戦の一つ1181年の南都(なんと)焼き討ちで、平清盛が奈良の反平家勢力を焼き討ちにし戦火に見舞われました。その後、東大寺の復興に立ち上がったのが後乗房 重源(ちょうげん)(1121-1206)です。朝廷からの信頼も厚く全国から寄付を集め、驚くほどの速さで復興を遂げます。重源の活躍をサポートしたのが、源頼朝(1147-1199)で、東大寺には源頼朝(1147-1199)が重源にあてた手紙が残っています。
資金や物資を調達して東大寺の復興を後押しをした源頼朝は、1195年北条政子を連れ大仏殿落慶供養に参列しました。そして警護のために武士(御家人)を連れてきて、これからは武士の世(鎌倉幕府)だと世の中にアピールしたのではないかと言われています。
戦国時代の火災
戦国時代1567年に再び大仏殿が炎上しました。
時の権力者である豊臣秀吉(1537-1598)は、奈良の大仏を修復するのではなく、京都に大仏を造りました。
続きは下記リンク先でお話しましょう。
奈良の大仏とその後の時代鎌倉時代に造られた大仏の違いについては下記リンク先をご参照ください。
鎌倉 鶴岡八幡宮の裏で起きたおやつ騒動とは?鎌倉の大仏様に3年に一度贈らるものとは何?
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