藤堂高虎の旗印の餅に込められた思いとは?そして主君徳川家康が藤堂高虎の絆とはどのようなものだったのか?

徳川家康の天下統一は、築城の名手ともいわれる藤堂高虎なしでは実現しなかったのではないか?と言われます。徳川家康も藤堂高虎を重要な家臣と考えていたようです。藤堂高虎についてひも解いていきましょう!

藤堂高虎の旗印に餅が描かれているのはなぜ?

藤堂高虎の旗印には、餅が描かれているいます。この旗印の白い丸が3つ並んだ「三つ丸餅」は有名となっていますが、なぜ藤堂高虎は旗印に餅を描いたのでしょうか?

由来その一

藤堂高虎が若い頃、納得のいく主君を求めて放浪生活を送っていたとき、持ち合わせがないのにもかかわらず、空腹のあまり三河宿(豊橋市)にあった餅屋で餅をたらふく食べました。主人にお金を持っていないことを正直に話したところ、食べっぷりが良かったと路銀(旅費)を与えてもらったそうです。その餅屋の主人への感謝を忘れないために、旗印に「三つ丸餅」としたと言われています。

後に、22万石の大名に出世した藤堂高虎がこの餅屋の前を通ったとき、餅屋の主人に金銀を渡し、若い頃の恩に感謝したと伝えられています。また、戦国時代の常識では、主君をかえることは当たり前のことだったそうです。現在の転職みたいですが、生き残りをかけた武将としては、納得する主君に仕えることは重要だと思いますが、主君を見極める力もかなり必要だったのでしょうね。

由来その二

藤堂高虎には、一国一城の主になりたいという強い思いがありました。「城を持ちたい」→「城持ち」→「白餅(しろもち)」から白い餅が描かれているともいわれています。


藤堂高虎とはどんな人物なのか?

戦国武将の一人 藤堂高虎は、身長188cm、体重113kgあったと伝えられており当時としては、かなり大柄な人物であったようです。自らの実力で大名にまでなった人物で、築城の名手ともいわれています。

藤堂高虎は色々な条件に合うお城の形を生み出せるアイデアをもっていいた人物であり、徳川家康から信頼を得て城造りを任され、家康の天下統一の鍵となった家臣でもあります。


藤堂高虎が築城した今治城とは?

藤堂高虎ゆかりの城が瀬戸内海にあります。関ヶ原の戦いの後、徳川家康の命令で藤堂高虎が1602年に築城した今治城(愛媛県)です。

今治城は海に接して建てられた海城(うみじろ)で、日本三大海城(うみじろ)の一つともいわれています。今でもお堀には海水が引き引き込まれているため、お堀にはクロダイなど海の生き物が暮らす珍しいお城になっています。なお、現在の今治城の天守は昭和に建てられたものです。

今治城は海の近くに建っているいるため、軟弱な地盤の上に建っています。軟弱な地盤で築城に不向きな土地ですが、徳川家康にとって非常に重要な戦略的理由があったのです。1600年の関ヶ原の戦いの後、西日本にはまだ毛利輝元、福島正則や黒田長政といった、豊臣家ゆかりの大名がおり、そこで徳川家康は今治に城を築かせ、それらの大名を監視させていたのです。


藤堂高虎はどのように軟弱な地盤の上に城を築いたのか?

お堀の石垣の真下に幅が狭く細長い「犬走り(いぬばしり)」という、犬が走れるほどの幅がある道があります。これが藤堂高虎が、海の近くにお城を築けた理由です。

この犬走りはお城を築くための土台の一部分となっており、この下には松の木を土台になる場所に置いて、杭を打つという工夫がされていると考えられています。藤堂高虎は、世界の最先端技術を駆使して、巨大な土台を造り、その上にお城を建てられたと考えられているのです。

イタリアを代表する世界遺産 水の都ヴェネツィアと同じ工夫です。ヴェネツィアは、泥の地面に木の杭を打ち、地盤を固めてから石の土台を積み上げ、その上に建物が建てられています。


藤堂高虎が築城した伊賀上野城とは?

徳川家康は築城の名手とも呼ばれる藤堂高虎に、あるお城の築城を任せます。そのお城とは天下統一の鍵を握る城 伊賀上野城(三重県伊賀市)です。白くて美しい天守は昭和に建てられたものですが、石垣は藤堂高虎時代のものが残されています。高さがおよそ30mもある石垣で、崖の上からお堀をのぞくと、まるで崖にいるような感じです。

藤堂高虎は豊臣秀吉との戦いに備え、伊賀上野城を鉄壁の要塞に作り替えました。伊賀上野城は大阪城からの攻撃に備えるため、石垣はしっかり西に向いています。


豊臣包囲網は藤堂高虎がいなかったら実現しなかった!?

さらに、徳川家康は丹波篠山城(兵庫県)を造って大阪城の周りに徳川の城を造り、豊臣包囲網を作りました。設計は藤堂高虎が行い、城は大名たちに土木工事をさせる天下普請(てんかぶしん)で築かれました。この地域は日本海側と関西を結ぶ交通の要所で、徳川家康はここを押さえることで、大阪城への援軍を阻止しようとしました。

また彦根城や姫路城など、大阪城を取り囲むうように徳川の城を造り大阪城を孤立させました。1614年徳川と豊臣の最終決戦、大阪の陣が始まりました。徳川家康は最新の武器を使い、大阪城を徹底攻撃しました。ついに豊臣軍は敗退し、豊臣秀頼は自害しました。徳川家康は、とうとう正真正銘の天下統一を果たしたのです!

豊臣包囲網が勝利の決め手になって、徳川家康は天下統一を果たしましたが、これは藤堂高虎がいなかったら実現しなかったといいます。


伊賀上野城の奇跡

当時の技術で、伊賀上野城の高さ約30mの石垣を造るのは、奇跡のようなことなのだそうです。新しい技術がなければ,これだけの高い石垣は造ることはできませんでした。

それまでの石垣は、野面積(のづらづみ)という自然の石をほとんど加工せずに積み上げていましたが、伊賀上野城 築城時に石を加工し高く積み上げるという技術を開発しました。

野面積は石の形が違うので積み上げるのに時間がかかりますが、伊賀上野城の石垣は加工したほぼ同じ形の石を、ほぼ設計図通りに積むだけなので、野面積より完成までの時間を早くすることができました。。そのため、伊賀上野城の改修はスピーディーに行われ、大阪の陣に間に合うことができたといいます。藤堂高虎がいなかったら、豊臣を攻略することができなかったかもしれません。

念願の天下人になった徳川家康ですが、大阪の陣が終結した翌年この世を去りました。


徳川家康と藤堂高虎の絆が感じられる場所とは?

徳川家康と藤堂高虎の絆を感じられる場所が、上野公園内にある上野東照宮です。東照宮とは、徳川家康を神様としてお祀りしている神社のことを言います。

上野東照宮は徳川家康の遺言によって建てられた

徳川家康は1616年に亡くなりましたが、この直前に徳川家康は、藤堂高虎と展開僧正(てんかいそうじょう – 天台宗の僧)を枕元に呼んで、「三人一つのところに魂鎮まるところを作って欲しい」という遺言をしました。徳川家康の遺言によって建てられた上野東照宮は、その後三代将軍徳川家光が改修し現在の姿になりました。

通常非公開の社殿内部は、黄金に輝いており、社殿の壁には徳川幕府のお抱え絵師 加納探幽が1651年に描いた獅子が当時のまま残されています。さらに正面奥に徳川家康が祀られており、黄金に輝く本殿には3つの扉があり、中心が徳川家康、向かって左側に天海僧正、そして向かって右側に藤堂高虎が祀られていました。現在は徳川家康、吉宗、慶喜が祀られています。また、参道には徳川家康の十三回忌に藤堂高虎自身が奉納した銅の灯籠(重要文化財)が残されています。

藤堂高虎は、同じ本殿の隣に自らの主君である徳川家康と共に祀られていました。主君の「三人一つのところに魂鎮まるところを作って欲しい」という遺言を藤堂高虎が聞いたときどのように感じたのでしょうか。私は、うれしい、恐れ多いという2つの感情が入り混じったものだったと思います。そして徳川家康も藤堂高虎も、人を見る目があったのだと思います。今も昔も、人を見る目が重要ですね。

乱世を生き、乱世を終わらせた徳川家康と藤堂高虎、彼らが命がけで築いた新しい時代はこの後260年も続いていきます。


コメント

タイトルとURLをコピーしました