京都大原三千院と寂光院ゆかりの人・建礼門院としば漬けの関係とは?大原女のモデルは平家物語にも描かれた寂光院にいた!?

京都駅から約18kmの位置にある、南北に長細い盆地にある京都大原は、ヒット曲でも歌われた癒しの里です。大原は川が多く湿気が多いため石垣などは非常に苔むしている、とても心落ち着く神秘的な山里です。京都大原で有名な三千院と寂光院を中心にご紹介いたします。しば漬けと大原女についても、ひも解いていきます!

ヒット曲「女ひとり」で歌われている京都大原 三千院とは?

京都大原 三千院とは、京都・大原に位置する天台宗の寺院で、その起源は8世紀、最澄が比叡山延暦寺を建立の際、梨の木の下に構えた庵が始まりと伝えられています。
平安後期以降は最雲法親王入室により、皇族が住職を務める宮門跡となりました。

寺地は時代の流れの中で、比叡山内から近江坂本、そして洛中を火災や応仁の乱などにより幾度か移転し、その都度、寺名も円融房(えんゆうぼう)、梨本坊、梨本門跡(なしもともんぜき)、梶井宮(かじいみや)と変わっていきました。明治維新後の明治4年、法親王還俗にともない京都市街地から大原に移り、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額により、三千院と称されるようになりました。「一念三千(いちねんさんぜん)」という天台宗の教えで、心のわずかな働き(一念)の中にも、この世のあらゆる要素(三千)が備わっているという意味だそうです。

移転を繰り返しながら、1200年もの時を刻み続けている歴史的な寺院なのです!


京都大原の三千院の往生極楽院

国宝 阿弥陀三尊座像、中心には阿弥陀如来様の両隣に眷属(けんぞく=従者)の菩薩様がいらっしゃいます。それぞれのお姿が他の菩薩様と違い、横から見ると前かがみになり、正座をしています。これは大和坐りと呼ばれ、今にも立ち上がりそうな様子は、死者を極楽浄土に迎え入れる瞬間と言われています。


京都大原 三千院の本堂

京都大原三千院で一番大事にしている癒しの法要があります。通常お経本は漢字が記載されているのみですが、京都大原三千院のお経本の中に音階と旋律が書き込まれており、声明(しょうみょう=独特の節回しで唱えるお経)が行われています。

大原は平安時代より声明の一大修練場として多くの僧が修行の訪れた場所なのです。


京都大原の三千院の庭とわらしべ地蔵

京都大原の三千院には二つの庭があります。

聚碧園(しゅうへきえん)

こちらは江戸初期の武将であり茶人でもあった金森宗和が修築したと伝えられており、苔むした一面の緑と、丸く刈り込まれたサツキが印象的な池泉観賞式庭園です。隣接する書院の縁側では、庭を眺めながら抹茶をいただけるようです。

有清園(ゆうせいえん)

一面苔に覆われた庭には杉やヒノキが立ち並び、池には滝の水が流れ込んでいる池泉回遊式庭園です。庭の正面には比叡山が見えます。比叡山の北側のふもとに位置し、比叡山の山の上に降り積もった雪が、山の水となって大原に流れてきます。自然に水が漂っている、心が落ち着く風景です。

木々の合間から眺める「往生極楽院」の姿は三千院のシンボルともいわれますが、私は京都大原というと、わらしべ地蔵をイメージしていまいます。

わらしべ地蔵とその歴史とは?

彫刻家の杉村孝さんが手掛けた苔に覆われた「わらべ地蔵」は、「有清園」と「往生極楽院」の先にある苔庭にいらっしゃいます。苔で覆われている「わらべ地蔵」ですが意外と歴史はまだ浅く、平成になってから置かれたのだそうです。


建礼門院(平徳子)が仏に仕えた京都大原の寂光院と、しば漬けの関係とは?

寂光院とは?

現在京都大原にある寂光院は天台宗の尼寺で山号を玉泉寺といい、594(推古2)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために創建したと伝えられています。当初の御本尊は聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊でしたが、現存しません。

また、『平家物語』に登場することで有名になり、平清盛の娘・建礼門院が終生を過ごしたことで知られています。本堂前西側の風情ある庭園は『平家物語』にも描かれるもので、心字池を中心に千年の姫小松や汀の桜、苔むした石のたたずまいが風情をかもしだしています。姫小松は、『平家物語』灌頂巻の大原御幸に「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる  中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」と伝わる松です。1186(文治2)年の春、建礼門院が翠黛山(本堂正面に対座する山)の花摘みから帰って来て、後白河法皇と対面するところにも登場します。

代々高貴な家門の姫君らが住持となり法燈を守り続けてきたと伝えられていますが、史料がなく詳細が分かっていないないものの、

・初代住持は聖徳太子の御乳人であった玉照(たまてるひめ)で549(敏達13)年に出家した日本仏教最初の三比丘尼の御一人で慧善比丘尼だそうです。

・第2代は証道比丘尼と言われています。崇徳天皇の寵愛をうけた女官である阿波内侍(あわのないし、藤原信西の息女)出家のあと1165(永万元)年に入寺し、証道比丘尼となりました。出家以前は宮中にあった建礼門院に仕え、この草生の里では柴売りで有名な「大原女」のモデルとされています。

・そして第3代が建礼門院です。


建礼門院(平徳子)とは?

建礼門院(けんれいもんいん)の実名が平徳子(たいら の とくし/のりこ)であり、1155(久寿2)年に父平清盛の次女として生まれました。母は平時信(ときのぶ)の女(むすめ)平時子で、異母兄に重盛、基盛で同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいる人物です。平家が隆盛を極めた時代は、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われた時もあったようですので,いわゆるエリート一族出身といったところでしょうか。

1171(承安1)年に清盛と後白河法皇の政治的協調のため、第80代天皇 高倉(たかくら)天皇の女御(にょうご)に、翌年には中宮(ちゅうぐう)になりました。1178(治承2)年には第一皇子・言仁(ときひと)親王(後の安徳(あんとく)天皇)を生み、安徳天皇の即位後は国母となりますが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、木曾義仲の攻撃により都を追われ、1185(元暦2)年3月壇ノ浦の戦い(下関(しものせき)市壇之浦町)で安徳天皇と平時子は入水し、平氏一門は滅亡しました。安徳天皇はまだ幼子であったため、おぼれて亡くなってしまったそうです。またこのとき歴代天皇が継承してきた鏡(八咫鏡(やたのかがみ))、玉(八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま))そして剣(草薙剣(くさなぎのつるぎ))とともに入水し、剣は見つからなかったと伝わっています。

しかし、平徳子だけは時の帝・高倉天皇の皇后だったこともあり、敵方の源氏の武士に助けられ都に送られ、京へ送還されました。その後平徳子は出家し尼となり、吉田の律師実憲(りっしじつけん)の坊に入り真如覚(しんにょかく)と号した後、吉田野津御所(よしだのづのごしょ)(京都市左京区吉田)、さらに大原寂光(おおはらじゃっこう)院(京都市左京区大原草生町)に移って仏に仕え、安徳天皇と一門の菩提を弔いました。1187(文治3)年には源頼朝(よりとも)から、平宗盛(むねもり)の遺領摂津国真井(まい)・島屋(しまや)両庄(しょう)を贈られています。

その後建保(けんぽう)元年12月13日(1214年1月25日)その生涯を終えました。亡くなった後は、不幸にも建礼門院は1人寂しく寂光院の側で眠っています。夫である高倉天皇の御陵(お墓)は、清水寺の近くにある清閑寺(せいかんじ)付近にあります。

高倉天皇は小督局(こごうのつぼね)という女性を寵愛し、平徳子の父である平清盛の逆鱗に触れ、小督局は清閑寺に出家させられ、この地で生涯を閉じることになります。高倉天皇は遺言により、小督局の墓所近くに葬られ、800年以上経った今も2人は並んで眠っています。


建礼門院としば漬けの関係とは?

しば漬けの歴史は古く、はるか平安時代末期まで遡ります。

都から人里離れた京都大原にある聖徳太子が建てた尼寺・寂光院に身を寄せ、滅亡した平家一族と亡き幼い我が子を思いながら1人寂しく暮らした様子は『平家物語』にも書かれています。寂光院のある京都大原の人達は、かつて皇后だった建礼門院に少しでも御所での高貴な日々を思い出し、すこしでも元気になってもらおうと考え、この地に古くから保存食として作られてきた紫の紫蘇(しそ)の葉の漬け物を献上しました。紫色は皇室でも最も高い位の身分の人がしか身につけることのできない色です。建礼門院はこの紫色をたいそう喜び、紫葉(むらさきは)漬けと名付けたそうです。それ以降、紫葉(しば)漬けの名が定着したといいます。

エリート一族出身とはいえ、夫の高倉天皇に裏切られ、幼子を亡くした後は一人で幼子と一族を弔うとても悲しい人生を送ったのかしらと思ってしまします。建礼門院は大原の人々の優しい心に救われたのではないでしょうか。


京都大原が大原女で有名となった理由

また、京都大原は昔から柴や薪を頭に乗せて売り歩く「大原女」(おはらめ)で有名な場所でもあり、大原女のモデルは前述の阿波内侍の山仕事をするときの作業着と言われています。

昔はまず柴に火をつけて、大きな薪をくべる現在の着火剤のようなものが柴でした。山に囲まれていた大原では柴がよく採れたため、都へ売りにいって貴重な現金収入にしていたのです。おしゃれな作業着であったことから、都の人の反応がよく葛飾北斎の浮世絵にも登場しています。舞妓さんに負けないくらいのアイドル的な存在だったそうです。

今も昔も、Kawaiiは強いです!


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