葵祭(加茂祭)の斎王と斎王代って何?葵祭とよばれるのはなぜ?葵祭(加茂祭)にまつわる歴史や疑問をひも解きます!

毎年5月15日、上賀茂神社と下鴨神社(総称 賀茂社)が一体となって開催する賀茂祭(かもさい)は、通称葵祭(あおいまつり)として有名です。葵祭は、7月の祇園祭、10月の時代祭とあわせて京都三大祭りの一つに数えられる京都に有名な祭りであり、最も由緒ある祭礼です。

勅使代を中心とした本列と斎王代を加えた女人列の計500人以上の行列が、京都御所を出発し、下鴨神社を経て上賀茂神社へ向かい祭儀が執り行れます。1500年もの歴史があり、平安の女流文学「源氏物語」や「枕草子」にもその様子が描写されている葵祭について、ひも解いていきましょう!


葵祭(加茂祭)はなぜ、上賀茂神社と下鴨神社で行われるの?

賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社の総称)は、その名のとおり、豪族賀茂氏の祖先を祀るための神社です。日本の神様は一族の祖先を祀る「祖先神」と、自然物や自然現象を神として祀る「自然神」の2つに大別されるそうです。上賀茂神社は自然神、下鴨神社は祖先神をお祀りしており、両神社を合わせて賀茂社となります。だからこそ葵祭(加茂祭)は上賀茂神社と下鴨神社で行われてきたのです。上と下どちらが偉いというわけではなく、自然と祖先の両方が大切なのです!

江戸時代に祭が再興されてから、賀茂別雷大神が降臨する際「葵と桂を飾り、祭りをするように」というご神託に基づき、全ての社殿に葵を飾り、そして人だけでなく牛馬にまで葵を飾ることから葵祭と呼ばれるようになりました。江戸時代の出来事については、「葵祭(加茂祭)の起源と歴史とは?」をご参照ください!

また、賀茂別雷大神が降臨する際の神話については、下記リンク先で詳しくひも解いています。

上賀茂神社は鴨川上流域にある電気を司る神がいる神社で、御神水で淹れたコーヒーまである、盛り塩発祥の京都最古の神社!?


葵祭の葵とは?

葵は平安遷都後の807(大同2)年に飾り草として使われはじめました。正式名はフタバアオイで、淡紅紫色のかわいらしい花をつけます。山の清流のほとりや深い杉木立のなかに自生しており、水の汚れを極端に嫌う植物です。このフタバアオイは、上賀茂神社と下鴨神社の神紋となっておいます。上賀茂神社と下鴨神社の近くに自生していますが、1500年もの間、歴史ある地域を建物だかでなく、その環境を守り続けてきた京都はすごい都ですね。

葵祭(加茂祭)で使われる葵は毎年両神社から御所に納められていますが、長く保存できないため、祭に必要な約1万本のアオイを納入期限の4、5日前のうちに一気に採取しなければならないのだそうです。

葵祭(加茂祭)の見どころである、天皇の使者である勅使が下鴨神社、上賀茂神社の両神社に参向する道中の「路頭の儀」(行列)の御所車、勅使、供奉者の衣冠などに飾られた緑の葉が、葵桂(〝あおいかつら〟または〝きっけい〟)とよばれるもので、桂の小枝に、葵の葉を絡ませたものです。


葵祭(加茂祭)の起源と歴史とは?

欽明天皇の御代(540~571年)、自然災害が多発し飢饉が起きました。その原因を占わせたところ「賀茂の大神(賀茂別雷大神)に丁寧なお祀りをしていないためだ」とお告げがあり、4月の吉日に馬に鈴を付けて走らせ、賀茂社に使いを送り丁重にお祀りをしたところ、天候は劇的に好転したと伝わっています。これが「葵祭」のはじまりです。その後819年、嵯峨天皇の時代に宮廷に取り入れられ、地域の氏神様の祭が宮中祭祀となりました。このことから、上賀茂神社と下鴨神社(総称 賀茂社)は、毎年の例祭に天皇から勅使が送られ、人々の幸せと世の平和を祈願される場所になりました。しかし室町時代以降は次第に衰徴し、室町時代の応仁の乱をきっかけに朝廷との関係は絶たれたそうです。

江戸時代になり、5代将軍徳川綱吉は、初代将軍の徳川家康が上賀茂神社に求めた葵使について関心を持ち、1685(貞享3)年5月に上賀茂神社に対して、御所に葵を遣わすことの由来や、葵献上によって如何なる災難や悪事が避けられるかなどを質問をしました。このような綱吉の葵に対する関心の高さから、加茂祭において葵を重視し、儀式に定着させ通称葵祭と呼ばれるようになったのです。

1694(元禄7)年に霊元天皇により賀茂祭が再興され、再び宮廷祭祀となりましたが、明治維新でまた中断され1883(明治16)年に岩倉具視(いわくらともみ)の京都復興策で再びよみがえり、明治以後は葵祭(加茂祭)を行う日が改められ、今は5月15日に行われています。

葵祭(加茂祭)は、政治の影響で紆余曲折を経つつも、1500年も前から現代まで続いている祭りなのです!


葵祭(加茂祭)は現代によみがえる平安絵巻!?

5月1日の競馬足汰式(くらべうまあしぞろえしき)、5月3日は流鏑馬(やぶさめ)神事、5月4日には斎王代女人列御禊神事など、「前儀」と言われるさまざまな儀式が下鴨神社や上賀茂神社で行われます。

そして葵祭(加茂祭)のハイライトは5月15日の、天皇の使者である勅使が京都御所より下鴨神社、上賀茂神社の両神社に参向する道中の「路頭の儀(ろとうのぎ)」です。京都御所建礼門前を出た行列は、京都府警の平安騎馬隊の先導のもと、本列(乗尻、検非違使志、検非違使尉、山城使、御幣櫃、内蔵寮史生、馬寮使、牛車、御馬、和琴、舞人、陪従、内蔵使、勅使、牽馬、風流傘)、斎王代列(命婦、女嬬、采女、斎王代)と続き、36頭の馬、4頭の牛、500余名の平安貴族の装束を身にまとったが人々からなりまるで平安絵巻のようです!葵祭(加茂祭)といえば華やかな平安絵巻のようなこの行列が有名ですが、天皇の勅使をお迎えして神様に祈りを捧げることが、神社にとって最も重要な儀式です。

京都御所建礼門前を出た行列は、下鴨神社を経て、加茂街道を通って上賀茂神社までの約8kmの道のりを進みます。両社ではそれぞれ「社頭の儀(しゃとうのぎ)」と呼ばれる儀式が行われ、天皇の使いである勅使(ちょくし)により御供物が奉納されます。

上賀茂神社を訪れた勅使は、祓いの水である「ならの小川」の上に設けられた「橋殿(舞殿)」で天皇からの祈りの詞(ことば)を伝えます。そして、それを聞き入れたことを神様に代わって伝える「返し祝詞」が、神様が降臨した「岩倉」と同じ意味合いを持つ場所、神社境内の「岩上(がんじょう)」で上げられます。


葵祭(加茂祭)のヒロイン斎王代とは?

斎王代(さいおうだい)とは、文字通り「斎王」の代わりとしての役です。葵祭(加茂祭)の本来の主役は勅使なのですが、現在は、きらびやかな十二単の衣装を身にまとった斎王代が、祭のヒロインとして最も脚光を浴びています。平安時代には天皇の息女(内親王・女王)が祭に奉仕していましたが、鎌倉時代に「斎王」の制度がなくなり、斎王の代理という役柄で、1956(昭和31)年に葵祭(加茂祭)を盛り上げようと市民から斎王代が行列に加わり女人列が復活しました。斎王代には毎年、京都ゆかりの未婚女性が祭に奉仕しています。とはいえ一般公募されるのではなく、京都ゆかりの寺社・文化人・実業家などのご令嬢(主に20代)から選ばれるのが通例となっているそうです(参加費用が高額だから??)。

葵祭(加茂祭)の斎王代は、五衣裳唐衣(いつつぎぬものからぎぬ)をまとい、御腰輿(およよ)という輿に乗って登場します。御腰輿は輿丁役(よちょうやく)8人で担ぎ上げます。御腰輿とは、長柄に紐(ひも)を結んで肩からかけ、手で腰に支える乗物のことですが、現在、御腰輿は肩の高さまで担ぎ上げられます。普通は腰輿(ようよ)ですが、葵祭(加茂祭)の斎王代の乗り物は、御腰輿(およよ)と呼ばれ、中世以来、宮中で使われた(御所)言葉と考えられているそうです。


葵祭(加茂祭)の斎王と、伊勢神宮との共通点とは?

古来宮中では神への崇敬の念を表す行為の1つとして、未婚の皇女を神の御杖代(みつえしろ)として差し遣わすという習わしがありました。御杖代とは、神や天皇の杖代わりとなって奉仕する未婚の内親王または女王(親王の娘)をいいます。

伊勢神宮との共通点とは?

伊勢神宮または賀茂社(上賀茂神社、下鴨神社)に巫女として奉仕した、未婚の内親王または女王(親王の娘)を斎王(*)、又は斎皇女(いつきのみこと)とよびます。もともと、伊勢神宮だけの慣わしだったものが、賀茂社でも行われるようになり、伊勢神宮の斎王を斎宮、賀茂社の斎王を斎院と呼んで区別していました。

また、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が伊勢へ行かれる前に身を清められたのが野宮神社(京都市左京区)で、その様子は源氏物語「賢木の巻」に美しく描写されています。

なお、賀茂斎院は、810(弘仁元)年4月嵯峨天皇が第8皇女の有智子(うちこ)内親王を斎王にしたことが始まりと言われています。


賀茂社の斎王のお仕事と,引退のタイミングとは?

斎王は初斎院といわれる居所を設けられ、2年間は日々潔斎(*)をして過ごし、毎月朔日(ついたち)には、賀茂社を遥拝(遠く隔たりのある場所から拝むこと)して過ごしました。そして、3年目の4月吉日に斎院御所(本院)に移り、御禊(賀茂川で行うみそぎ)を行った後、賀茂社や本院の祭祀に奉仕したということです。斎院御所は、愛宕郡紫野に設けられたため、紫野院(むらさきのいん)ともいわれました。また、この制度は賀茂斎院の制(かもさいいんのせい)といわれます。

斎院(斎王)は、天皇陛下が譲位または崩御された際に退下(たいげ)(**)するのが習わしとされていましたが、皇女が少なかったことから、必ずしも一代で退下するということでもなかったとも言われています。また、斎院(斎王)を勤めた皇女は、退下の後、ほとんどが独身で生涯を終えたといわれています。

(*)斎王の「斎」には、「潔斎して神に仕える」という意味があり、潔斎とは法会、写経、神事などの前に、酒肉の飲食 その他の行為を慎み、沐浴(もくよく)などして心身を清めることだそうです。

(**)退下とは、斎王をやめることです。


葵祭(加茂祭)のヒロイン斎王代を支える輿丁役の当日のスケジュールとは?

葵祭(加茂祭)のヒロイン斎王代を支える現代の輿丁役は、当日朝7時40分に京都御所に集合し、衣装を着せてもらいます。衣装を着るのはこの時が初めてで、白い袴(はかま)をはき、上半身は黄色の布衣(ほい)を着て、足は足袋(たび)に藁沓(わらぐつ)です。輿丁役は10時半に出発し、下鴨神社まで約1時間で到着し、そこで一旦休憩。午後2時半過ぎに出発し約1時間かけて上賀茂神社に到着したら、任務完了ということです。

輿丁役は京都御所発時、下鴨神社での乗り降り、そして上賀茂神社で降りるときの合計4回、斎王代を乗せた御腰輿を、輿丁役8人息を合わせて担いで台車に乗せたり、降ろしたりするそうです。葵祭(加茂祭)に参加するのは名誉なこととは思いますが、慣れない衣裳に斎王代を乗せた御腰輿を担ぐのは大変そうです。そして葵祭(加茂祭)のヒロイン斎王代は、注目の的となりますので、見物にいらした方や取材の方への気遣いが必要そうです。


牛車にも高級車がある!?

行列のなかで、ひときわ目を引く乗り物が「御所車」と呼ばれている牛車です。薄紫色の藤の花の装飾を揺らしながら、ゆっくり進みます。その牛車にもいろいろあるのだそうです。

葵祭(加茂祭)では、勅使用の牛車が最高級車の唐車です。斎王代用は八葉車と呼ばれる少し位の下のものです。昔は牛車で社参していたそうですが、今は乗っていないません。外見の優雅さとは裏腹に乗り心地は、はなはだ悪いそうです。

葵祭の翌日、斎王列が帰るというので、頼光四天王で名高い坂田公時ら3人が見物にきたそうです。馬では野暮だし徒歩では人目があるということで、「牛車で見物としゃれ込んでは…」と1人が提案し全員が同意しました。早速に出かけましたが、慣れない車にゆられて強者も車酔いとなり、牛車の中で寝てしまい、目を覚ましたときは、行列は過ぎたあとで、文字どおりあとの祭りとなったそうです(「今昔物語」巻ニ八ノ二)。

私は聞いただけで車酔いならぬ、牛車酔いになってしまいそうです。


源氏物語では葵祭(加茂祭)で恐ろしい女の闘いが勃発!?

「源氏物語」の「葵の巻」に、斎王列見物にでかけた葵の上と六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の車争いがあります。光源氏の正妻である葵の上と、源氏の愛がさめた六条御息所の衝突です!

当時は多くの人が牛車で斎王列見物に来ていましたので、牛車での場所取り合戦です。葵の上が牛車で斎王列見物に到着すると、すでに牛車でいっぱいでした。その牛車のなかに六条御息所の牛車を見つ、葵の上は六条御息所の車を見物の列からハジキ飛ばしてしまいます。気のすまない六条御息所のうらみは生霊となって、やがて葵の上にとりつく…古来より人間は嫉妬深い生き物なのですね。

光源氏と六条御息所が、今生の別れを迎えた場所が野宮神社です。野宮神社については、下記リンクをご参照ください。

京都の渡月橋と竹林の先にある絶景とはどんなもの?そして嵐山の中にあるリトル嵐山の正体とは ?

 



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