京都・鴨川 をたどれば京都がわかる!?賀茂川の名前の由来は?鴨川を分水して高瀬川をつくった人物と、京都の文化を守るためにつくられた川とは?

河川法上すべて鴨川である川を、上流から通称「貴船川」→「鞍馬川」→「賀茂川」→(東側からの高野川と合流し)「鴨川」と呼びます。

2022年6月18日放送のブラタモリでは、「川をたどれば京都がわかる!?」を探っていました。

貴船川

地名は「きぶね」ですが、貴船神社は水が濁らないように「きふね」と読むそうです。でも川は「きぶねかわ」。う~ん、ちょっと残念。

ちなみに、貴船の川床は、貴船川のほとりにある江戸時代終わり頃に創業された川床料理旅館 貴船ふじやの8代目が大正時代に川に台を置いたのが始まりと言われています。

貴船神社については、下記リンクでご紹介していますのでご参照ください。

貴船神社は呪いで有名なパワースポット!?なぜ貴船神社が絵馬発祥の地なのか?そして貴船神社 奥宮で発祥した丑の刻参りとは本来どのようなものなのか?


賀茂川の名前の由来となった豪族とは?

賀茂川の名は、平安京ができる以前から賀茂川流域を納めていた豪族 加茂氏に由来します。

今でも古代豪族加茂氏の末裔が加茂県主(かもあがたぬし同族会)に450名ほど登録しているそう。江戸時代までは全員「加茂〇〇」と名乗っていたそうです。加茂さんがたくさんいて、混乱してしまいそうですね…

加茂氏はもともと自分たちの氏神をおまつりして、神職ずっと務めてきた社家(しゃけ=神社に奉祀する神職の家系)で、江戸時代まで上賀茂神社の神職は代々加茂氏が務めてきました。

今でも加茂氏の受け継がれている上賀茂神社の神事が「加茂競馬(くらべうま)」です。毎年5月5日に上賀茂神社で行う 五穀豊穣を願う神事で、平安時代宮中の行事だったものを加茂氏が引き継ぎ代々執り行ってきました。2023年で930年を迎えます。

上賀茂神社については、下記リンク先もご参照ください!

上賀茂神社は鴨川上流域にある電気を司る神がいる神社で、御神水で淹れたコーヒーまである、盛り塩発祥の京都最古の神社!?

上賀茂神社には、古来神職が禊にも使っていた山から流れてきた神聖な川の流れと、賀茂氏が賀茂川から引いた人口の川があります。


なぜ、加茂氏は人口の川を作ったのか?

それは、加茂氏が住んでいた社家町に水を引くためです。屋敷の庭で神社から流れてきた水で禊をするために、各屋敷には水を引き込むための取水口までありました。

社家町の先では米や野菜をつくるための農業用水として利用されました。加茂氏は賀茂川の両側に、水路を張り巡らせ広大な農地を形成していたのです。

京都に平安京が開かれてからは、平安京にも水を供給するようになりました。鴨川を管理支配していたのは加茂氏ですが、かなり力があったのでしょうね。今でいうと琵琶湖疎水をある一族が管理しているという感じでしょうか?

その後、加茂氏が水を引いた農地で栽培され京都の名物となったのが、「加茂なす」と「すぐき」です。

すぐき菜はかぶの一種で、桃山時代に加茂氏によって栽培されはじめ、社家の庭で栽培したことから「屋敷菜」と呼ばれていました。また、御所に仕えた社家が宮中から種子を賜ったから「御所菜」とも呼ばれていたそうです。江戸時代すぐき菜は門外不出の固有種として上賀茂で守られて栽培されていました。この当時はまだ希少価値の高い高級贈答品としてわずかしか栽培されていなかったようです。すぐき漬けが一般に普及しはじめるのは、明治以降になってからで、現在では千枚漬けやしば漬けほど知名度は高くないようですが、これがあれば何杯でもご飯が食べられるといわれています。約300年の歴史を誇るすぐき漬けは、酸味のある美味しいる漬物です。

京都の渡月橋と竹林に先にある絶景とはどんなもの?そして嵐山の中にあるリトル嵐山の正体とは ?


京都中心を流れる高瀬川は誰が、何のためにつくったのか?

江戸時代以降の京都の発展にどのように川が利用されてきたのでしょうか?

京都中心を流れる高瀬川は、物資を運ぶために鴨川から引き込んでつくられ、そして淀川に繋がります。高瀬川は内陸の京都を、港町の大阪と結ぶ重要な物流の大動脈としてつくられたのです。そのため江戸時代には高瀬川沿いにたくさん船着き場があったそうです。

高瀬川は江戸時代初めから300年にわたり京都の経済発展の立役者となったのですが、高瀬川はある人物が資材を投じてつくった川です。ある人物とはだれなのでしょうか?

それは、豪商角倉了以(1554-1614)です。今のお金で150億円以上の私財を投じ息子と共に高瀬川を開削したそうで、高瀬川の起点に自らの屋敷を造り管理していました。

私財を投じて京都の発展に貢献するとはなんと素晴らしい人物なのだろうと思いましたが、角倉了以は通行料を取って投下資本はすぐに回収できたようです。さずが豪商ですね。

角倉了以は、穂頭川の工事で亡くなった人々を弔うために大悲閣千光寺を作った人物でもあります。

詳しくは、下記リンクをご参照ください。

京都の渡月橋と竹林に先にある絶景とはどんなもの?そして嵐山の中にあるリトル嵐山の正体とは ?


京都のある文化を守るためにつくられた人口の川とは?

江戸時代に豪商角倉了以が鴨川から分水して高瀬川をつくりました。さらに昭和前期に鴨川分水し、みそそぎ川を公共事業でつくりました。目上は高瀬川の余分な水を吐くための余水吐(よすいばき)でしたが、京都のある文化を守るためでした。

でも実は、鴨川の納涼床のためにつくられたものなのです。鴨川の納涼床(毎年5月から9月に川沿いの飲食店からみそそぎ川に張り出すように設けられる)とは京都の夏に欠かせない文化です。江戸時代から明治初期までは鴨川の幅は今よりも広く、中州もありましたので、川の両岸や中州のいたるところに納涼床が設けられていたのです。

しかし明治時代以降、川の氾濫を防ぐため鴨川の真ん中が底が大きく掘り下げる工事が行われたため、中州がなくなり両岸と川の距離も離れてしまいました。これでは納涼床を設けることができません。そこでこの人口の川であるみそそぎ川がつくられたのです。

京都の人はこの納涼床をどうしても残したかったのですね。



コメント

タイトルとURLをコピーしました