つくられた映画は260本以上、1000話を超えるテレビドラマが制作され、アニメや漫画、ゲームにも数えきれないほど登場した名探偵シャーロック・ホームズ。時代も国も超え、人々に愛されてきたシャーロック・ホームズは、文学の世界の伝説ともいうべき存在です。
そのシャーロック・ホームズは、イギリス人作家アーサー・コナン・ドイル(1859年5月22日-1970年7月7日)によって生み出されました。今回は、コナン・ドイルについてひも解いていきましょう。
コナン・ドイルが書いたシャーロック・ホームズについては下記リンク先で詳しくご紹介しています!
シャーロック・ホームズの魅力と謎とは?実在する人物なのか?活躍した時代は?
コナン・ドイルの生涯:作家人生の始まり
1886年27歳のコナン・ドイルは、医師として北極の捕鯨船やアフリカ沿岸の船に乗り、すでに数々の冒険を経験していました。ようやくイギリス南部の町ポーツマスの自宅に落ち着くと、コナン・ドイルは以前か関心を持っていた執筆活動を始めます。
コナン・ドイルは芸術家の家に生まれ、その才能を受け継いでいました。父親は画家でした。叔父のリチャードも同じく画家として成功をおさめ、風刺化の作家としても活躍していました。しかしコナン・ドイルは、文学に強い興味を持っていました。小説家になりたいという野望を抱いていたのです。遡れば英国王室に繋がる貴族の家系に繋だと信じていた母親は、中世をこよなく愛していました。そんな母に育てられたコナン・ドイルは、歴史小説を書きたいと願っていましたが、当時結婚したばかりのコナン・ドイルにはお金が必要でした。「試しに流行の探偵小説を書いてみるのはどうだろう?」この思い付きがコナン・ドイル自身想像しなかった、まったく新しいタイプの探偵、シャーロック・ホームズを誕生させることになるのです。
シャーロック・ホームズのキャラクターは、コナン・ドイルの医学校時代の教授ジョセフ・ベル博士にヒントを得ています。彼の推理力は学生を驚かせ、たびたびロンドン警視庁からもお呼びがかかりました。コナン・ドイルは「ジョセフ・ベル博士は、話を聞かなくても、観察だけで病気の診断ができました。国籍や職業などを言い当てることもしばしばありました。教授のような科学者が探偵になれば当てずっぽうに捜査をせず、科学的データを積み上げて犯人を突き止めるだろうと思いました。」と語っています。
コナン・ドイルの生涯:『緋色の研究』の出版
コナン・ドイルの第一作の小説は、『緋色の研究(A STUDY IN SCARLET)』です。『緋色の研究』は掲載してくれる出版社がなかなか見つからず、最終的に「BEETON’S CHRISTMAS ANNUAL(ビートンのクリスマス年間)」という雑誌で発表されます。しかも条件付きの掲載でした。翌年まで掲載を持ち越すことに合意すれば著作権買取でわずか25ポンド支払うという条件でした。その理由は、今は市場が安っぽい小説であふれているからというもので、やる気がそがれるようなものでした。しかしコナン・ドイルは、受け入れました。そして『緋色の研究(A STUDY IN SCARLET)』は、「BEETON’S CHRISTMAS ANNUAL(ビートンのクリスマス年間)」1887年版の目玉として、世に出たのです。
しかし『緋色の研究』は、商業的には失敗に終わりましたが、意外にもコナン・ドイルは落ち込んでいませんでした。探偵小説という気分転換は、もう終わり、これからは本物の文学歴史小説に取り組めるはずでした。ロンドンに立ち寄ったあるアメリカ人編集者が、コナン・ドイルをディナーに招きました。「緋色の研究」を気に入ったのです。招かれた3人の中にはオスカー・ワイルドもいました。編集者はリピンコット(LIPPINCOTT’S)マガジンのイギリス版を立ち上げると言い、それぞれに一作ずつ執筆を依頼しました。オスカー・ワイルドがこのとき書いたのは、名作「ドリアングレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)」です。歴史小説に舵を切ろうとしていたコナン・ドイルは、迷っていました。ロンドンで診療所を開いたものの、患者は来ず、赤ん坊が生まれたばかりで、原稿料の100ポンドは大金でした。コナン・ドイルは、しぶしぶシャーロック・ホームズに戻り、ひと月足らずで長編「四人の署名」を書きあげます。
作品は1890年2月に出版されましたが、あまり話題にはなりませんでした。しかしこの後、コナン・ドイルの人生は劇的に変わっていきます。翌年、月刊誌のストランドマガジン(The STRAND MAGRZINE)が創刊されました。創刊後瞬く間にストランドマガジンは当時のどの月刊誌もかなわないほどの部数を誇るようになり、そこにコナン・ドイルは、シャーロック・ホームズとジョン・ワトソン博士を主人公とする新たな小説を書いたのです。
コナン・ドイルの生涯:『ボヘミアの醜聞(しゅうぶん)』が大ヒット!
1891年に発表した短編『ボヘミアの醜聞(しゅうぶん)』は、たちまち大ヒットになりました。ストランドマガジンは、至急追加で書いて欲しいと要求してきました。短編6作で150ポンド、連載小説のように、毎月掲載されるようになりました。ストランドマガジンは眩暈がするほどの売り上げを記録しました。大衆は熱狂し、バックナンバーまで買い求めました。ストランドマガジンで始めた連載のおかげでコナン・ドイルは作家として生活できるようになりました。
しかし、想像上の人物が命を得て、勝手に動きまわり始めたことがきがかりでした。キャラクターを作っていくのは、子どもを育てるようなものです。成長に必要な要素を与え、人生を送るのに不可欠な価値観を与えます。するとある瞬間、彼らは自分自身を開放し、自分で自分のことを決めるようになります。シャーロック・ホームズもそうでした。シャーロック・ホームズはパワフルになり、自分の創造主に挑戦するようになりました。コナン・ドイルには受け入れがたいことでした。
コナン・ドイルは自分の最高傑作であるシャーロック・ホームズに、うんざりしていました。自分にはもっと良いものが書けるはずと信じていたからです。コナン・ドイルは、シャーロック・ホームズを、自分にとってはレベルの低すぎる娯楽作品とみなしていました。コナン・ドイルは、自分には歴史小説の素質があると信じていたのです。コナン・ドイルが崇拝していた作家の一人はウォルター・スコット、スコットランドの小説家で代表作は『アイバンホー』や『ロブ・ロイ』など、まさに王道の歴史小説家と言っていい人物です。中世の騎士道の精神に心酔していたコナン・ドイルは、ウォルター・スコットのような歴史小説を書くことを夢みていました。
そして実際に書きました。シャーロック・ホームズの連載と並行して、コナン・ドイルは歴史小説を2冊書き、そのうちの一つ『白衣の騎士団(The WHITE COMPANY)』は広く評価を得ました。コナン・ドイルは自分自身がブルターニュの君主コナン1世の子孫であると信じていました。しかし読者が求めていたのは、やはりシャーロック・ホームズでした。
コナン・ドイルの生涯:コナン・ドイルの敵はホームズ!?
コナン・ドイルは自分が作家として成長するうえで、探偵小説は役に立たないと考えていました。それでもストランドマガジンが毎月シャーロック・ホームズの新作を要求してくるので、コナン・ドイルは作品の質を落とさないよう苦心して書いていたのです。しかしついには、自分が囚われの身であるかのように感じ、シャーロック・ホームズを書くことに一切耐えられなくなってしまいました。
コナン・ドイルはシャーロック・ホームズを殺そうと心に決めます。このことを母親に伝えると、母親は激怒して手紙を送ってきました。「いけません。そんなことをしてはダメ、絶対にダメです。」
ストランドマガジンは新しいシリーズの連載を依頼してきました。コナン・ドイルは迷ったあげく、破格の報酬を要求します。最初のシリーズよりはるかに大きな金額を求め、あきらめさせようとしたのです。ところがストランドマガジンはその条件をのみました。もう逃げることはできません。新しいシリーズ12話で1000ポンド、最初のシリーズの3倍です。コナン・ドイルは金の檻の中でシャーロック・ホームズのシリーズを書き続けることになりました。この忌々しい探偵は、すでに作者であるコナン・ドイルより存在感を高めていました。
人々はシャーロック・ホームズを実在の人物だと思っていたようです。シリーズを書き始めたころから、コナン・ドイルはシャーロック・ホームズ宛の手紙を受け取るようになります。作家にすればあまり嬉しいことではありません。フィクションが現実以上に力をもって、現実を変えていきました。シャーロック・ホームズという悪夢は、コナン・ドイルの作家としてのキャリアを台無しにしただけでなく、生みの親である彼を単なる秘書役に貶めようとしています。コナン・ドイルは「シャーロック・ホームズが戦いをのぞむのなら、受けてたとう・私は物事を中途で終わらせはしない。この最後の物語は最高傑作となる。」と考えていました。
そしてコナン・ドイルは究極の犯罪者をつくりあげました。その人物に学生時代の同級生の名をとって、モリアーティと名付けました。シャーロック・ホームズと同じくらいの頭脳を持ち、同じくらい優秀な男です。比べるもののない大敵との対決。モリアーティ教授とシャーロック・ホームズは、まさに両極端の存在です。二人の最後の戦いの舞台に選ばれたのは、コナン・ドイルがスイスを旅行したときに見たライヘンバッハの滝でした。1892年12月ストランドマガジンに掲載された『最後の事件』で、物語は避けがたい結末をむかえます。シャーロック・ホームズとモリアーティはもつれあったまま、滝から落下しライヘンバッハの泡立つ滝に消えていきました。コナン・ドイルは金の卵を産むダチョウを生贄にしたのです。しかし後悔はありませんでした。
読者にとってはまさかの驚き、信じたくありませんでした。翌日仕事に行くとき、人々は黒い喪章をつけて出掛けたと言われています。作者と出版社のもとには抗議の手紙が殺到しました。コナン・ドイルの回想録によれば読者からの手紙には「このケダモノ」と書かれていたそうです。
しかしコナン・ドイルは「泣いた人が大勢したと聞いた。だが、私自身は新たな世界へ羽ばたくチャンスを得たことが嬉しかった。高額な報酬の誘惑で、なかなかシャーロック・ホームズから逃れられなかったからだ。」と語っています。歎願や脅迫がどんなにこようと、コナン・ドイルの決意は揺るぎませんでした。もうシャーロック・ホームズは書かない、その名を口にするだけでも気分が悪くなりました。
コナン・ドイルの生涯:どんな人物?いつ「サー」の称号を得た?
アーサー・コナン・ドイルは、身長192cm、体重100kg。堂々たる体格のスポーツマン、クリケットの名手で、アマチュアボクサーでもありました。ビリヤードでは敵なし、スキーの普及にも貢献。発明家としてライフジャケットなどを考案。心底冒険が好きで、なおかつ天才的な小説家。どこから見てお非の打ち所がない人物でした。
コナン・ドイルは妻のルイーザを伴って、旅行に出かけます。スイスではノルウェーからスキー板を取り寄せて本格的にスキーをはじめ、アメリカでは講演旅行を行って大勢の聴衆に迎えられました。そして結核を患っていた妻のために数か月をエジプトで過ごしました。帰国すると一家はサリー州の邸宅に移り、コナン・ドイルは新しい歴史小説の執筆に取り掛かりました。1897年38歳のコナン・ドイルは、24歳の美しい女性と出会いました。二人はプラトニックな関係を続けます。
翌年イギリス軍がスーダンに侵攻すると、コナン・ドイルは呼びかけに応じて戦争特派員として現地に赴きました。南アフリカのボーア人とイギリス軍との間で戦争が勃発すると、すでに40歳になっていたにかかわらず、すぐに軍務につき、自費で野戦病院を建てました。イギリス軍の作戦を擁護する活動を行い1902年にはナイトの称号を与えられ、以後サー・アーサー・コナン・ドイルと呼ばれるようになりました。
コナン・ドイルの生涯:なぜホームズを復活させたのか?
しかし、コナン・ドイルの敵は屈したわけではありませんでした。姿を消してから10年、シャーロック・ホームズは帰ってきたのです。大衆はシャーロック・ホームズを求めていました。コナン・ドイルはついにあきらめ、シャーロック・ホームズを復活させることにします。ただし一度だけ。
読者からの圧力に負けてシャーロック・ホームズをよみがえらせるしかなくなったコナン・ドイルは、ちょっとしたトリックを使いました。シャーロック・ホームズが死んだ後ではなく、以前の事件としたのです。小説『バスカヴィル家の犬』は、シャーロック・ホームズの死の3年前に起きた事件という設定で書かれました。
かなり奇妙な物語です。肝心のシャーロック・ホームズがほとんど登場しません。中心になって捜査を進めるのは、ジョン・ワトソン博士。これがまた問題でした。この作品でもそうですが、ジョン・ワトソン博士はあまり頭のきれる人物としては描かれていないからです。大事なことに気が付かず、理解もしていないため、間違った解釈をしてしまうのです。シャーロック・ホームズは離れた所でジョン・ワトソン博士を監視し、独自の捜査を行います。まるで自ら作り出した主人公を疑いの目で見つめているコナン・ドイルのように。
コナン・ドイルがシャーロック・ホームズに対して抱いている複雑な感情が、この作品にあらわれています。捜査が何ともしまらない感じです。気怠さが物語全体に漂い、統一感というものがありません。
『バスカヴィル家の犬』は1901年に出版されるとすぐに大ヒットしました。シャーロック・ホームズを復活させろという圧力はさらに強まります。しかし本当にこの一作で終わりだとコナン・ドイルは決めていました。ところが間もなく、その決心を揺るがせるオファーが舞い込みます。アメリカの雑誌コリーアーズ(Collier’s)から示された一話につき5000ドル+印税という条件、六話で30,000ドル、十三話で65,000ドル、こうしてシャーロック・ホームズは1903年9月23日に復活しました。
気が付くと作者が自分の創作したキャラクターの陰に隠れてしまっている、なかなか興味深いことです。イアン・フレミングにも同じようなことがありました。彼はジェームズ・ボンドを2度抹殺しようとしています。『ロシアから愛をこめて』と『007は2度死ぬ』の中で。でも主人公は常にカムバックするのです。
コナン・ドイルの生涯:ドイルの強い正義感
コナン・ドイルの妻ルイーザは1906年9月に亡くなりました。7年後それまでプラトニックな関係を続けていたジーン・レッキーと結婚します。家族と一緒に旅をし、政治に手を出し、世の中の進歩にも興味を示しました。やっかいな探偵とも平和的に共存できるようになっていました。あるときコナン・ドイルは、自分にも探偵の仕事ができるのではないかと考えます。あのシャーロック・ホームズを書いているのは、自分なのだから。
コナン・ドイル自身は、シャーロック・ホームズより、むしろジョン・ワトソン博士に似ていました。しかし自分は架空の犯罪や謎を考えて、それを解決することができるのだから自分がその気になればすぐ探偵になれるだろうと思ったのです。しかも強い正義感の持ち主だったので、誰かが問題を抱えて彼のところにやってくると、その問題が深刻であればあるほど放っておくことはできないと考えるたちでした。
1906年コナン・ドイルは若い弁護士ジョージ・エダルジが、家畜を殺した罪で懲役7年をいいわたされた事件に注目しました。証拠はすべてジョージ・エダルジの無実を示していましたが、インド系であったためスケープゴートにされたのです。コナン・ドイルは冤罪であることを系統立てて説明しました。
この男性はすでに裁判で有罪判決を受けていたのですが、コナン・ドイルは彼の無実について非の打ちどころのない説明をしてみせました。有罪の判決が覆ることはありませんでしたが、ジョージ・エダルジはいわゆる恩赦を受け、弁護士の仕事に戻ることを許されました。彼は生涯コナン・ドイルに感謝したと言われています。
コナン・ドイルの生涯:新たな人気小説の誕生!
シャーロック・ホームズを彷彿とさせる鮮やかな逆転劇、しかしこのときコナン・ドイルの頭の中に別の作品の構想が生まれつつありました。近くでイグアノドンの足跡が発見されたことがヒントになったのです。そして新しいキャラクターが生まれました。雄牛のような荒々しい面構えのチャレンジャー教授。シャーロック・ホームズとは真逆のキャラクターです。教授が向かうのは進化から取り残された、先史時代の動物が住む恐怖の世界です。小説『失われた世界(The Lost World)』は1912年にストランドマガジンに掲載され、イギリスとアメリカで大ヒットを記録しました。コナン・ドイルにとっては、シャーロック・ホームズ以来の大きな成功でした。
一方シャーロック・ホームズのシリーズも続いていました。以前より自由なかたちで。シャーロック・ホームズは田舎に引きこもって、養蜂を楽しみ、時折現役に復帰しては新しい謎を解きます。第一次世界大戦が起こるとドイツ軍のスパイを見つけ出して国に貢献しました。戦争は全てを変えました。コナン・ドイルは航空機と大砲が重要な役割を担うと確信し、防弾ジャケットと防毒マスクの準備を参謀長に強く訴えます。外務省に登録し、イギリス、イタリア、フランスの前線から、継続的に情報を発信、そしてコナン・ドイルの心の中で何かが壊れました。
コナン・ドイルの生涯:心霊主義
戦争が終わったとき、彼は変わり果てた別人になっていました。恐怖と長男の死、コナン・ドイルは思いもよらない領域に足を踏み入れます。無神論者で合理主義者でもあったコナン・ドイルはオカルトに心酔していきました。
1922年には妖精の写真を撮ったという2人の女子生徒の話に、コナン・ドイルはひどく引き付けられました(コティングリー妖精事件)。あざ笑われても意に返さず、霊魂が存在する決定的証拠だと主張しました。たしかに妖精が映っていました。ただし本物の妖精ではなく、雑誌から切り抜いた妖精の写真を合成したものです。1920年代風の妖精です。
妖精や霊魂の存在を信じていたというより、なぜシャーロック・ホームズのような理性的な人物を書き続けることができたのか、その点に戸惑いを感じる人が多いと思います。コナン・ドイルがある種のロマン主義者だったということです。不可能を可能にしてしまう科学は、ロマンなのです。
心霊主義と科学というロマン
当時は放射線の影響や、無線電信の実験など遠隔作用のさかんに研究が行われていました。科学者たちは、科学的に証明できる目に見えない力が、霊魂にも働いているかもしれないと真剣に考えていたのです。たとえばあの有名なマリー・キュリーも霊魂との交信に参加しています。どのようなエネルギーが床からテーブルを浮き上がらせたのか特定したかったのです。
ダンカン・マクドゥーガル(Duncan MacDougall、1866年-1920年)という米国の医師は、人間が死ぬ際の体重の変化を記録することで魂の重量を計測しようと試みた実験で知られています。その実験結果は、1907年に心霊現象研究協会 (The Society for Psychical Research)の Journal of the American Society for Psychical Research、ニューヨーク・タイムズや医学雑誌 American Medicine に掲載されました。
ツタンカーメンの呪い
コナン・ドイルはツタンカーメンの呪いを信じ、ツタンカーメン王墓発掘関係者の死の原因は墓を守る神官が作り出した魂でも霊体でもない、謎のエレメントのせいだと書き残しています。
ツタンカーメンの呪いの真相とは?ツタンカーメンの呪いの調査結果とは?ツタンカーメンの呪いの捏造者とは?
コナン・ドイルの生涯:ドイルの晩年
コナン・ドイルは「私は信じていることではなく、知っていることを話します。信じることと、知っていることは全く違う。自分の手で触れ、目で見て、耳で聞いたことをお話しします。複数の証人もいます。」と語っています。
コナン・ドイルは残りの人生を霊魂の実在の証明に捧げました。1927年シャーロック・ホームズの最後の物語『ショスコム荘』がストランドマガジンに掲載され、作家と主人公の40年に渡る戦いが終わりました。疲れ果てたコナン・ドイルは、1930年71歳で心臓発作で亡くなりました。
一方シャーロック・ホームズは、作品の中で永遠に生き続けます。物語の人物が伝説的に扱われるようになると、作者の存在は薄らいでいきます。コナン・ドイルの他の著作もコナン・ドイル自身のことも、次第に人々の記憶から消えていきました。それに対しシャーロック・ホームズは、国境も時代も超えて旅を続けています。さらに活き活きと活力を得て、120を超える作品に脚色されました。
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