祇園祭の山鉾巡行の山鉾を飾る懸装品は、海外からやって来た!懸装品には徳川家が入手した美術品も含まれている!?

歴史ある祇園祭の山鉾巡行の山鉾を飾る懸装品(けそうひん)は、今から数百年まえに海外からやって来たものであることを御存じでしょうか?なぜ世界中から集まった世界の芸術品が京都に辿り着いたのか、ひも解いていきましょう!

祇園祭の山鉾の基礎情報は下記リンク先で説明しています。

祇園祭の山鉾すべてに名前がある!豪華な装飾や懸装品で飾られ長く守り継がれてきた秘密とは!?

祇園祭の山鉾の一つ鯉山の装飾の謎とは?

祇園祭の山鉾の一つ、鯉山(こいやま)の四方を飾るのは9枚のタペストリーです。これらを並び替えると図柄がピタリと合い、もとは縦横3m以上ある一枚の大きなタペストリーだったことがわかります。この大作が、どこで誰によって製作され、いつ祇園祭にあらわれたのかについての記録はほとんど残されていません。初めて文献に登場するのは、江戸時代中期1793(寛成5)年 京都奉行所の記録で、「天竺織の毛織物」と記載されているのが鯉山のタペストリーのことです。当時異国の品の多くが天竺物(てんじくもの)と呼ばれていました。このタペストリーは江戸時代は鎖国であったにもかかわらず、18世紀末には京都に届いていたことだけがわかっています。

それにしても、1枚のタペストリーをきれいに9枚に切り分けるなんて、すばらしい美的感覚と技術ですね。


祇園祭の山鉾の一つ鯉山の謎をとく手がかりとは?

祇園祭の山鉾の一つ鯉山のタペストリーは、縁をぐるりと赤いラシャで覆われています。そのためこの鯉山タペストリーを修復する際は、この赤いラシャを外す必要があります。

昭和41年の鯉山タペストリー修復の際、修復にあたった専門家の中谷路子さんが、赤いラシャを外したとき、鯉山タペストリーのからある文字を発見しました。ある文字とは、「BB」という2文字です。

「BB」ってまさかブリジット・バルドー!?そんなわけないですね・・・


祇園祭の鯉山タペストリーの縁に書かれた文字の意味とは?

タペストリーの世界で「BB」は、誇り高い印として知られています。「BB」はブリュッセル ,ブラバントを表しており、現在のベルギー、当時のブラント公国ブリュッセルで作られた最高級品でした。

昭和41年の鯉山タペストリー修復で発見された「BB」の文字をもとに、ベルギー王立美術歴史博物館の当時のタペストリー部長のギー・デルマルセルさんがタペストリーの調査にあたり、特徴的な模様から造られた年代を特定しました。

「BB」だけで来歴の調査が可能だなんて、さすが最高級品ですね!


祇園祭の鯉山タペストリーは誰が作ったのか?

ギー・デルマルセルさんによると、鯉山タペストリーは空と大地と海の縁飾りと呼ばれ、上の部分に鳥が描かれこれが空を象徴、横には様々な動物が描かれ大地をあらわし、下部の古代の神と魚が海を表しているおり、これは1600年から1620年頃に作られたタペストリーの特徴だということです。鯉山のタペストリーには作者の印が残っていません。本来なら縁の部分にあるはずですが、切り取られてしまったようです。

同じ作者のものと思われる別のタペストリーには印があり、色々な文字を合わせたモノグラムになっています。16世紀から17世紀のブリュッセルで才能を発揮したタペストリー職人ニカシウス・アエルツ(-1627)という製作者です。人間の描写にすぐれ、神話や歴史上の人物を題材に多くの名作を残しています。鑑定の結果、17世紀初めに造られたギリシャ神話に出ているトロイヤ戦争がテーマと判明しました。

そして、ギー・デルマルセルさんは、鯉山タペストリーは5枚連作のうちの1枚と思われると言います。当時タペストリーは連作で作られるのが常識であり、かつ通常連作を1枚で売るということはありませんでした。よって残りの4枚も日本に渡った可能性があります。

残りの4枚はまだ残っているのでしょうか、気になります、ワクワクします!


5枚連作の祇園祭の鯉山タペストリー以外の4枚はどこにある?

なんと鯉山町の人々は、5枚連作の祇園祭の鯉山タペストリー以外の4枚を探し出しました。祇園祭の鯉山以外の別の山鉾に1枚、石川県に1枚、滋賀県に1枚、そして東京に1枚と全国に散らばっていたのです!。天竺物と呼ばれる渡来品ですので、江戸時代の権力者が入手していたに違いありません。

もしかして江戸時代の権力者って、あの方!?


祇園祭の鯉山タペストリーの5枚連作は、江戸時代誰が入手したのか?

入手した人物を探すためのヒントとなるのが、東京にある1枚です。

東京の1枚は、増上寺(東京都港区)にありました。増上寺の御堂「安国殿」に、秘仏 黒本尊(御開帳・黒本尊祈願会、正月・5月・9月の15日)とよばれる、徳川家康の念持仏(ねんじぶつ)阿弥陀如来がお祀りされています。徳川家康はこの念持仏を戦場に持参し、戦場でも念仏を唱えていたと伝わっています。

明治5年に外国人が撮影した写真で、この黒本尊を祀った厨子を囲むように、厨子の後ろの壁に幅5m近い巨大なタペストリーが飾られていたことがわかっています。しかし、このタペストリーは、明治42年の火災で焼失してしまいました。

江戸時代初期に伝わったとすると、二代将軍秀忠か将軍家から直々に頂いたというような事情によって、黒本尊の後ろに飾られた可能性が考えられます。

どのようなルートで将軍家に届いたのでしょうか?長くなりましたので、その謎は下記リンク先でひも解きましょう!

祇園祭の山鉾を飾る懸装品は、松坂屋(の前身)から購入した!?徳川家は、どのように西洋の美術品を手に入れたのか?



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