マリー・アントワネットの真実とは?フランス宮廷の生活とは?マリー・アントワネットのプライベートとは?マリー・アントワネット最後の手紙に書かれたこととは?

豪華絢爛なフランスのヴェルサイユ宮殿の最後の王妃がマリー・アントワネットです。

マリー・アントワネットは、農民が主食のパンが食べれない状況に陥っていることを知った「パンがなければお菓子をたべればいいじゃない(Qu’ils mangent de la brioche!)」と言ったとよくいわれますが、これは「あるたいへんに身分の高い女性」(une grande princesse) が言ったとされる言葉で、実はマリー・アントワネットの言葉ではないのです。

マリー・アントワネットはフィクションや伝説のようになってしまっています。不朽の名作「ベルサイユのばら」の主人公で日本でも大人気のマリー・アントワネットは、実際はどのような女性だったのかその素顔をひも解いていきましょう!


マリー・アントワネットのフランス宮廷生活

宮廷の儀式と王妃のプライベート

18世紀のヴェルサイユ宮殿には、フランス国王だけではなく、貴族や使用人たち数千人が暮らしていました。そのヴェルサイユ宮殿で最も有名な場所は、357枚の鏡が壁を埋め尽くす鏡の回廊(かいろう)です。イタリアからたくさんの鏡職人を呼び寄せ、当時最高の技術で作られました。

そして鏡の回廊の隣にあるのが、王妃マリー・アントワネットの寝室です。ゴージャスな装飾が施されており、天井は金で覆われフランス王家のシンボルであるユリのしるしが刻まれています。寝室は通常プライベートな空間ですが、しかしヴェルサイユ宮殿では公式の場所でもありました。つまり朝起きた時から、王妃の寝室で儀式が始まったのです。王妃マリー・アントワネットのプライベートは宮廷の儀式として公開されていました。

例えば、毎日の着替えは細かな決まりがあり、肌着を渡すのは参加者の中で一番位の高い女性の役割と決まっており、もしさらに位の高い女性が途中から参加してきたら、儀式はやり直しです。マリー・アントワネットはたくさんの人々の視線を浴びながら、裸で待たされることになりました。

さらに出産も公開で行われました。これには、確かに王妃が産んだ子どもだと証明する意味合いもありました。見物人が家具の上からマリー・アントワネットの出産をのぞこうとして、思わず気絶したという話も残っているようです。


当時の常識は、現代の常識とは異なり、恥というのは自分より身分が上の人に対して感じるもので、身分の下に人に対しては何も恥を感じてはいけないことになっていました。要するに一番身分が高い王様と王妃は一切恥を感じないことになっていたのです。

これが昔から決まったフランス王家の儀式だったのです。参加者は一人ひとり自分の役割を果たすことが生きがいになっていたのです。この宮廷儀式には貴族の力を抑えようとする王室の狙いがありました。貴族の序列を細かく定め毎日見せつけることで、競争心をかきたてます。その結果、貴族の内部の出世争いに夢中になり、王に逆らわなくなるからです。

マリー・アントワネットの日常生活は、フランス王室繁栄のために捧げられていたのです。



マリー・アントワネットとファッション

赤いドレスを着ているマリー・アントワネットの肖像画も残っていますが、赤というのは中世以来、権力・権威がある人たちの衣装の色だったようです。

マリー・アントワネットはフランスの広告塔!?

当時フランスでは服飾産業が盛んになっていました。工房では羽根飾りなどがつくられ、パリでは扇子やレースを作る工房が次々と建てられ、フランスの基幹産業の一つになっていました。マリー・アントワネットが豪華な衣装を着ていたのは、フランスのファッションをPRするためでもありました。例えば諸外国から大使が訪ねてきたときは、それらを見せなければならなかったと考えられ、マリー・アントワネットはフランスの広告塔の役割を担っており、自らフランスのすべての技術を身にまとっているじょうな感じだったのではないでしょうか。

ちなみに、宝塚の衣装は舞台衣装として舞台映えするようなアレンジはされているようですが、服の一つ一つの(要素の)組み合わせ方は、実際のものと同じところがあるようです。


マリー・アントワネットの本当の好みとは

毎朝マリー・アントワネットは布が貼られた衣裳目録を見ながら、その日に着たい服の布を決めたそうです。その衣裳目録に貼られた布は、柄は無地であったり、縞模様であったり、また色合いも意外とシンプルなものが多いのです。

マリー・アントワネットが白い衣裳を着た肖像画(1783年)が残されていますが、この時代の基準からすると非常にシンプルな衣装です。世の中も1770年代後半から1780年代にかけて「ゴテゴテ・キンキラはあまり格好よくないのではないか、ナチュラルこといいのだ」というふうに感受性に変化があり、ちょうどその時代にマリー・アントワネットが居合わせたのです。


マリー・アントワネットが好きなお菓子とは?

マリー・アントワネットが愛したと伝わるのは、小麦粉、バターや干しブドウなどシンプルな材料で作られる「クグロフ」というお菓子です。20世紀前半に編纂(へんさん)されたラルース(Larousse)というお菓子や食べ物の由緒ある歴史と作り方が克明に紹介されているフランスの権威ある百科事典があり、この百科事典の「クグロフ」の項目には、マリー・アントワネットが好んで食べたと記載されています。そして注目すべき記述は「クグロフ」はオーストリア周辺の酵母でつくられ、マリー・アントワネットの時代に流行したという部分です。

異国で祖国の食文化を伝えるのは容易なことではなく、それも材料の酵母まで本物を使いオーストリアの伝統の食文化を伝えたといことは、マリー・アントワネットは大変意志の強い女性であったということを表しているのかもしれません。


マリー・アントワネットの生い立ち

マリー・アントワネットは、フランスと肩を並べる大国オーストリア ハプスブルク家出身です。マリー・アントワネットは、1755年11月2日名門ハプスブルク家の15番目の子どもとして生まれました。オーストリアはフランスに比べ、家族のだんらんを大切にする自由な気風がありましたマリー・アントワネットは、小さい頃から音楽やダンスを愛し、のびのびと育ちました。

ところが当時の国際情勢が彼女の運命を変えました。それまで戦争を繰り返してきたオーストリアとフランスが同盟を結ぶことになりました。両国の絆を深めるため、マリー・アントワネットは14歳のとき、フランスの王太子(のちのルイ16世)と政略結婚をさせられました。ヴェルサイユ宮殿に着いたマリー・アントワネットには、思いもかけない現実が待ち構えていました。同盟国となったはずの王族や貴族の中に、かつての敵オーストリアに反感を持つ者達がいました。マリー・アントワネットへの敵意は広がり、王妃に即位したころには、「20歳のちっちゃな王妃様 城壁を超えて帰っちゃいな」という歌まで口ずさまれたと言われています。マリー・アントワネットにとって、ヴェルサイユ宮殿監獄の様な場所だったのです。


マリー・アントワネットの夫ルイ16世どんな人だった?

ルイ16世はとにかく優しい人だったようです。マリー・アントワネットが「あれが欲しい」というと「いいよ」となんでも許してしまう人だったようです。

ルイ16世は残酷な王様ではなかったようです。例えば武装蜂起(ぶそうほうき)がおこっても、一気に弾圧しろと命じるのは嫌だったようです。また、この時代までは残虐な刑罰があったのですが、それを辞めさせました。


マリー・アントワネットの宮殿以外での生活

このころ、マリー・アントワネットは宮殿から遠く離れた「離宮 プチ・トリアノン」に通いました。ここでマリー・アントワネットは宮殿とは全く違う生活を始めました。まず、マリー・アントワネットはプチ・トリアノンへ入れる人を家族や親しい友人などに制限をしました。そしてプチ・トリアノンを改築して、シャッターのような仕組みの壁で窓を塞(ふさ)ぎ、秘密の部屋を作りました。マリー・アントワネットはプチ・トリアノンは宮殿のような厳格なしきたりのない場所にし、のプライベートな空間とたのです。これは、秘密の部屋には宮殿での公開儀式への反発が込められていました。マリー・アントワネットは、オーストリアではプライベートのある生活を送っていましたので、隠れてプライベートな生活を送りたかった、マリー・アントワネットが求めていたのは自由だったのです。

しかしこうしたマリー・アントワネットの行動は、ヴェルサイユ宮殿で大反発を受けました。宮殿の儀式が減ると、仕事や役割を失う人が生まれるからです。プチ・トリアノンに入ることを禁じられた貴族たちも憎しみを募らせました。さらにパリではマリー・アントワネットを中傷する風刺画が広がりました。閉ざされた世界で愛欲や浪費におぼれているという噂などがありました。最初は悪い噂は宮廷から出て、その噂が街なかに広まっていったと考えられます。そうしてマリー・アントワネットの評判がどんどん悪くなっていったのです。


マリー・アントワネットの母(マリア・テレジア)は、かつてフランスの嫁ぐマリー・アントワネットに「あなたがフランスのしきたりに反する試みをすることを、私は少しも願っていません。すべての人の目があなたに注がれています。悪評が立つきっかけを与えてはいけません。」と忠告の手紙を送っていました。

しかしマリー・アントワネットは祖国の母の忠告も、世間の悪評も知ったうえで、自らの道を進み続けました。広大なヴェルサイユの敷地の一角に村里(むらざと)を丸ごと作ってしまったのです。村里には、「土地や自然への回帰」という考え方が反映されています。マリー・アントワネットは、自分で子どもをそばに置いて、自分で自然豊かな村里で子ども達を育てました。


マリー・アントワネットの子育て

フランスには上流階級(王族や貴族)だけではなく、子どもが生まれるとすぐ乳母に預けて、養育係をつけ、もう少し下の階級だと寄宿学校に入学させるという習慣がありました。この時代のフランスに子どもを自分で育てることがまったく常識になかったにも関わらず、それを言い出して実行したというのは相当な意志の強さがあったのではないでしょうか。

マリー・アントワネット素顔は、ヴェルサイユ宮殿の古い仕組みを打ち破った自由な女性だったのです。


マリー・アントワネットの最後の日々

1789年、マリー・アントワネットが33歳のとき、フランス革命が起こりました。新しい歴史の主役となったのは市民たちでした。彼らは、自由や平等、国民主権など、現代に繋がる権利を訴えました。さらにヴェルサイユ宮殿を襲撃され、マリー・アントワネットたちは捕らえられ、幽閉されました。夫のルイ16世は処刑され、マリー・アントワネットも子ども達と引き離されパリのコンシェルジュリー監獄の独房に入れられ、兵士に24時間監視されていました。マリー・アントワネットは、処刑されるまでのおよそ2か月間、監視兵から衝立(ついたて)一枚を隔てたところでは過ごしました。そしてルイ16世の死を悼(いた)んで喪服を着ていました。

コンシェルジュリーのマリー・アントワネットの独房があった場所は、現在礼拝堂に改築されていますが、マリー・アントワネットが独房に閉じ込められていた時に来ていた服が今でも残されています。


マリー・アントワネットの裁判

1793年10月14日にマリー・アントワネットは裁判にかけられました。フランスには当時の裁判記録が残されています。裁判で特に糾弾されたのが、国家財政を使い果たしたことや、(外国との)共謀および犯罪的な連絡でした。そして2日後、マリー・アントワネットを斬首刑(ざんしゅけい)とすると判決が下されました。裁判は公平に行われていたのでしょうか?

財政破綻を破綻させた罪

当時はマリー・アントワネットが財政破綻の原因だと信じられていました。しかし革命直前1788年のマリー・アントワネットが暮らした宮廷の支出(宮廷費)は他の王族の分を含めても国家財政のおよそ5%で、これは歴代の王の時代と比べても同じ程度と考えられます。一番大きな原因は、軍事費でした。ルイ14世以来繰り返された戦争で、莫大な借金が発生し国家財政を破綻させていたのです。国家財政の赤字というのは数億リーブルという規模でしたが、マリー・アントワネットが使ったのはせいぜい数百万リーブル位でした。


(外国との)共謀および犯罪的な連絡

マリー・アントワネットはフランス機密情報を外国に漏らしていました。しかし、そこにはやむを得ない理由がありました。革命後、マリー・アントワネット達は何度も民衆に襲われていたのです。彼女は故郷のオーストリアなどに助けを求めざるを得ませんでした。マリー・アントワネットとしては、外国に軍事機密を漏らすのも正義の行為である、また嫁入り先で困ったから実家に援助を求めただけであると考えていたようです。

マリー・アントワネットが決定的に嫌われる原因となったのが、ヴァレンヌ逃亡(マリー・アントワネットたちが、パリから脱出しようとして捕まった)事件でした。


陪審員

裁判でマリー・アントワネットの死刑に賛成した陪審員たちは、フランス革命の恩恵を受けていた人(高い地位やお金を受けていた)たちであり、裁判の内容にかかわらず、確実に死刑を支持する人達でした。そんな彼らが革命政府の敵であるマリー・アントワネットをかばうはずがありません。

また、当時革命に反するものだと疑われれば、厳しい制裁が待ち受けていました。たとえば承認として出廷した元軍事大臣はマリー・アントワネットを王妃と呼び、敬意を表したため裁判所の怒りをかい、数か月後処刑されました。もし、マリー・アントワネットに有利な判決を下せば自分の命すら危うくなったのです。



マリー・アントワネットを救おうとする者が誰もいないなか、彼女は裁判に立ち向かわなければならなかったのです。それは道徳的な孤独でもあり、政治的な孤独でもありました。

マリー・アントワネット最後の手紙

判決のあと、義理の妹に最後の手紙を残しています。「たった今、死刑の判決を受けました、しかしこれは恥ずべき死ではありません。息子がこの言葉を忘れないとよいのですが、決して復讐(ふくしゅう)など考えませんように。」それは元王妃としての最後の誇りが刻まれたものでした。



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