松方コレクションは日置釭三郎によって守られた!フランスパリの松方コレクションとロンドンの松方コレクションの運命とは?

国立西洋美術館の松方コレクションを築いたのは、松方幸次郎という人物で、明治維新の直前(慶応元年12月/1866年1月)に生まれ、国立西洋美術館が開館する9年前の1950年に84歳でその生涯を終えました。

松方幸次郎が入手した美術品の総数は1万点に及ぶといわれますが、現在の西洋国立博物館の松方コレクションは約380点、東京国立博物館の浮世絵版画コレクションは約8000点です。

西洋国立博物館の松方コレクションは、どのように築かれたのかひも解いていきましょう!

松方コレクションの始まりとは?

第一次大戦により造船で多大な利益を上げた松方幸次郎は、1916(大正5)年ロンドン滞在中に、戦争への協力を絵画で呼びかるポスターと、それを食い入るように見つめる人々の姿を松方幸次郎は目の当たりにしたのがきっかけで、この町で初めて美術品を購入したのがコレクションの始まりです。

詳しく知りたい方は、下記リンク先をご覧ください!

国立西洋美術館・東京国立博物館の松方コレクションのきっかけとなったイギリス人画家とは?松方コレクション第一号の作品とは?そしてイギリス人画家が松方に抱かせた夢とは?


松方コレクションには贋作がある!?

それから約10年の間、松方幸次郎はたびたびヨーロッパ各地を訪れ、絵画を購入しましたが、多くの作品を購入する中でときには失敗もありました。

ベルリンの画廊で買った作品で、額縁の裏側にレンブラントの作と書かれているものがあります。しかし美術史的な観点からみると明らかに贋作ということです。

今ではとても有名な松方コレクション、そのコレクションを築いた松方幸次郎が贋作をつかまされていたとは意外です!


松方幸次郎のパリの画廊での愛称は?

松方幸次郎は素人が贋作をつかまされないよう、指南役を求めました。画家のフランク・ブラングィンが教えてくれたのが、当時ロダン美術館の館長レオンス・ベネディット(1859-1925)です。

松方幸次郎はベネディットの紹介でパリの(超一流の)画廊を巡りました。ベネディットのお墨付きで、パリの画廊から信頼された気前のよい松方幸次郎が、パリの一流の画廊を訪ねると画商たちは松方幸次郎をムッシュMと呼び、次々と名作を見せてくれるようになりました。

この時期にムッシュMこと、松方幸次郎はルノアールの初期の傑作「アルジェリア風のパリの女たち」を購入しています。


松方コレクションに関東大震災が与えた影響とは?

松方幸次郎は購入した作品を持ち帰り、東京の麻布に美術館を建て「共楽美術館」と名づける予定で、美術館設立後はその美術館を日本に寄贈するつもりでいました。

しかし、政府は1923年9月1日に発生した関東大震災の復興の財源確保のため、輸入する贅沢品に100%の関税をかける決定を下しました。松方幸次郎がヨーロッパから持ち込む美術品も関税の対象となったため、やむなく松方幸次郎はコレクションをロンドンとパリに留め置くことにしました。


失われたロンドンの松方コレクションは謎に包まれていた!?

松方幸次郎は購入した美術品をロンドンの倉庫に預けていましたが、その倉庫の火事で美術品は燃え、何を購入していたのかもわからなくなってしまいました。

国立西洋美術館の調査チームが2016年テイト美術館のライブラリー(テイト・アーカイブス)で松方に関係しそうな資料をすべて取り出した際、松方と交流のあった画商が寄贈した文書に「火事で焼けた松方のコレクション」と、手書きで書かれた15ページにわたるリスト(ロンドンリスト)が発見されました!

美術館は美術品を維持・管理することが主な仕事かと思っていましたが、このような調査チーもあるのですね。また、美術館のライブラリーに上記のような歴史的資料が保管されていることも知りませんでした。


ロンドンの松方コレクションの中身とは?

印象派の父マネの作品など、計316点がリストに記載されていました。最も多かったのはフランク・ブラングィンという日本ではあまり知られていない画家の作品70点です。このフランク・ブラングィンという画家が、松方幸次郎が敬愛する友人で美術品収集の助言者で、松方に大きな影響を与えた人物です。

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松方コレクションに世界大恐慌が与えた影響とは?

1927(昭和2)年の経済恐慌が状況を一変させました。松方幸次郎が社長を務める川崎造船メインバンクの十五銀行の休業によって、川崎造船は経営危機に陥り松方幸次郎は社長の座を降りました。また会社を残すことと引き換えに、松方幸次郎の財産を会社の財務整理にあてました。松方幸次郎が収集し、日本に運ばれていた美術品2000点のうち、1300点は数度にわたる展覧会で売却され、散逸してしまいました。


フランスパリの松方コレクションは日置によって守られた!

フランスコレクションは、松方幸次郎のかつての部下である日置釭三郎(ひおきこうざぶろう)に管理を任せていました。日置釭三郎が作成したのが、ロダン美術館で見つかったパリリストです。

第二次世界大戦が勃発し、パリにナチスドイツ軍がせまり、パリ中の美術館が作品を地方に避難させはじめます。日置釭三郎も戦火を避け郊外のパリの西80kmのところ位置するアボンダン村のある一軒家に一人で松方幸次郎のパリコレクションを運びました。日置釭三郎は美術品を木箱に詰め、納屋に隠していたといわれています。日置釭三郎は絵画の存在を知られないようひっそりと暮らしていましたが、外から除くことができない暗い部屋に10枚の絵だけ飾っていました。その中で日置釭三郎のお気に入りは、貧しかった画家スーチンが描いた「ドアボーイ」です。このパリでもくもくと働く労働者を描いた作で、赤い服を着たドアボーイが描かれています。これは松方が破産する直前に買った最後の松方コレクションです。

日置釭三郎は、終戦までの20年間松方幸次郎の信頼を裏切らずコレクションを守り続けました。




サンフランシスコ平和条約が松方コレクションに与えた影響とは?

しかし日本が敗戦国となり、1951(昭和26)年、サンフランシスコ平和条約によってフランスの国有財産となります。その後、フランス政府は日仏友好のためにその大部分を「松方コレクション」として日本に寄贈返還することを決定し、その作品を展示するためにつくられたのが、国立西洋美術館です。

しかし日本に戻らなかった作品もありました。ゴッホの「アルルの寝室」や「ドアボーイ」もフランスに残されました。その後も返還の交渉は行われ、ルノアールの初期の傑作「アルジェリア風のパリの女たち」は、フランス政府との8年の交渉の末、日本にもたらされました。


激動の時代に美術品を守ることの過酷さを物語る作品とは?

フランスから届いた絵画の中には、ひどく傷んだものもありました。19世紀の巨匠ギュスターヴ・モローの作品と思われる「ビーナスの誕生」は破損がひどく、ギュスターヴ・モローの作品だと断定できない状況です。

 

松方コレクションとは、松方幸次郎が集め、日置釭三郎が守りぬいたレクションだったのですね。


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