国立西洋美術館の松方コレクションを築いたのは、松方幸次郎という人物で、明治維新の直前(慶応元年12月/1866年1月)に生まれ、国立西洋美術館が開館する9年前の1950年に84歳でその生涯を終えました。
松方幸次郎が入手した美術品の総数は1万点に及ぶといわれますが、現在の西洋国立博物館の松方コレクションは約380点、東京国立博物館の浮世絵版画コレクションは約8000点です。
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国立西洋美術館の松方コレクションを築いた松方幸次郎とはどのような人物だったのか?そしてなぜ美術館をつくりたかったのか?
松方幸次郎とフランク・ブラングィンとの出会いとは?
松方幸次郎は1916年ロンドンに渡った際、ロンドンの町に貼られた「国を助けよう!海軍に入ろう!」と第一次世界大戦への協力を絵画で呼びかるポスターに目を奪われました。そして、それを食い入るように見つめる人々の姿を松方は目の当たりにしたのです。
松方は「絵にはすごい力がある!」と思い、そのポスターを描いた当時イギリス一の人気画家フランク・ブラングィン(1867-1956)のロンドン郊外のアトリエを訪ねました。
「絵にはすごい力がある!」と思って、ポスターを描いた作家に会いに行く松方の実行力はすごいですね。
松方幸次郎とフランク・ブラングィンが夢見た共楽美術館
これまでの画家が描かなかった労働の現場をつぶさに見つめて描いてきたブラングィンは、戦争の絵だけが絵ではないと松方に言います。そして松方が最初に買った一枚はブラングィンの船の絵でした。それが国立西洋美術館の「しけの日」ともいわれています。
これが松方コレクションの始まりのようです!松方コレクション第一号の作品が国立西洋美術館所蔵となっているなんて、松方コレクションの経緯を考えると奇跡に思えます。
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国立西洋美術館の松方コレクションはどのように築かれた?ロンドンコレクションの謎と、松方幸次郎を襲った不運とは?
松方はブラングィンと付き合い、何度も語り合ううちに、松方の絵画への関心は深まっていったのです。
国立美術学校ロイヤル・アカデミー、イギリス美術館で一番権威があるアカデミーに保管されているブラングィンのスケッチブックには松方のポートレートがあります。年が1つ違いで、松方は造船業に携わり、ブラングィンは元船乗りということもあり、船を愛する者同士気が合ったのでしょう。そしてとなりのページには建物のスケッチがあり、松方が夢にみた幻の共楽美術館の初期のアイデアです。二人で美術館の構想を議論したのでしょうか。ブラングィンが松方に日本に美術館をつくるという夢を抱かせたのでしょう。
またこれがモネの傑作のひとつである睡蓮が松方コレクションに加わった奇跡を起こしたとも言えると思います。
睡蓮を奇跡的に入手できた経緯について詳しく知りたい方は、下記リンク先をご覧ください!
国立西洋美術館の松方コレクションのモネの睡蓮を奇跡的に入手できたのは、ロダンの夢を引き継いだある日本人のおかげだった!
松方幸次郎 肖像とは?
松方家に一点だけ絵画が残されていました。それは松方とブラングィンが出会った年1916年にブラングィンが描いた「松方幸次郎 肖像」です。
松方幸次郎は、絵画を含め美術品のすばらしさを教えてくれ、日本に美術館をつくるという夢をもたらしてくれた、親友ともいえるフランク・ブラングィンとの思いでが詰まった作品で、これだけは手放すことができなかったのでしょうか。松方幸次郎とフランク・ブラングィンの強い絆を感じさせます。
「コレクションは自分のためではない。日本のため日本人のためだ」と言い続けた松方幸次郎の思いを、孫の松方清彦さんが受け継ぎ、この絵画は寄贈されました。
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