1200年にもわたる歴史を誇る京都、そんな古(いにしえ)の都の南側、そしてもう一つの古都奈良との間に位置するのが宇治市です。宇治川を中心に発展しはるかな時をきざんできました。
なぜ宇治は古くから人々に愛されてきたのでしょうか?
そこには時代を超えて宇治ブランドを築いてきた4人の偉人がいたのです。宇治の歴史をひも解いていきましょう。
平等院はなぜ宇治に建てられたのか?
誰もが知る10円玉に描かれ他平等院鳳凰堂(国宝)は、宇治を代表する名所です。今からおよそ千年前、平安時代の中頃に創建された平等院。はるかな歴史を刻む鳳凰堂は、静かな池の中に浮かぶように建っています。
平等院がある場所は、もともと平安貴族の藤原道長(ふじわらのみちなが)(96-10276)の別荘があった場所です。藤原道長は次々と天皇に嫁がせるなどして絶大な権力を誇り50歳の頃「この世をば わが世とぞ思う望月の 欠けたることもなしを思えば」と”この世は自分のためにあるようなものだ”ともとれる歌を歌った人物として知られています。宇治は京都(都)の南側にあり、別荘地として栄えていた場所でした。藤原氏の氏寺(うじでら)は興福寺(こうふくじ-奈良市登大路町)、氏神(うじがみ)様は春日大社(かすがたいしゃ-奈良市春日野町)であり、京都(都)と奈良を往復する必要があり、京都と奈良の間に位置する宇治は便利な場所だったのです。そして、宇治に藤原道長の別荘ができると、人が集まり華麗な文化が花開いたのです。今でいう高級別荘地のイメージができてきたのです。
藤原道長は記録に残る症状などから日本人で最初の糖尿病患者といわれ、日本糖尿病学会の記念切手にも描かれています。50歳の頃から糖尿病が悪化して調子が悪かったようです。病に苦しむ藤原道長が最後に望んだのが極楽往生(ごくらくおうじょう)です。藤原道長は晩年、現在の京都御所の近くに極楽浄土へ導いてくれる阿弥陀如来を祀った寺院 法成寺(ほうじょうじ)を建てました。藤原道長はそこで極楽往生を願いながら息を引き取ったと伝わります。
そんな藤原道長の思いを受け継いだのが息子の藤原頼通(よりみち-992-1074)で、藤原道長の死から25年後(1052年)、宇治の別荘を平等院という寺に改めました。
なぜ宇治が源氏物語の舞台になったのか?
紫式部は貴族たちの生活やリアルな政治をつぶさに観察し、取り込みながら源氏物語を書いていったと言われています。源氏物語の描写はかなりリアルだからこそ、長きにわたり読み継がれてきたと考えられます。宇治十帖は光源氏亡きあと、その子供綵や孫たちが繰り広げた恋物語です。
源氏物語全54巻のうち最後の10巻は宇治が主な舞台となっており宇治十帖(うじじゅうじょう)と呼ばれています。なぜ宇治が舞台になったのでしょうか?
源氏物語では光源氏の別荘が宇治川のそばにありますが、藤原道長の別荘(現在の平等院)の場所と一致しています。藤原道長の娘 藤原彰子(ふじわらのしょうし-一条天皇の皇后)の家庭教師役として紫式部が仕えていました。そんなこともあり、紫式部は宇治にあった藤原道長の別荘をモデルに源氏物語 宇治十帖を書いたのではないでしょうか。紫式部が宇治を訪れたかについては、資料がないため不明ですが、宇治十帖の影響で宇治の名は人々に知られるようになっていきました。なんと江戸時代には、聖地巡礼が行われていたようなのです!
宇治茶と豊臣秀吉の関係とは?
茶人としても知られる豊臣秀吉(1537-1598)は、おいしいお茶を入れるため名水と言われた宇治川の水を汲み上げ伏見城まで届けさせたと伝わります。宇治川の水をくみ上げるのに使ったのが、豊臣秀吉が千利休に造らせたと伝わる釣瓶(つるべ)で、当時の通圓茶屋(つうえんちゃや)の当主が預かり、これで毎日水を汲んでいたいたそうです。いまでも通圓で保管されています。
毎年秋の宇治茶まつりでは、豊臣秀吉の故事に習い橋から宇治川の水を汲んでお茶をたてます。
豊臣秀吉の時代になると宇治茶が有名になり、偽物が出回るようになりました。そこで豊臣秀吉は宇治郷の宇治茶師たちが扱うお茶だけを「宇治茶」とし、宇治茶を保護したのです。
煎茶を広めた宇治のお寺とは?
江戸時代より前はお茶と言えば抹茶、しかもとても高級なものでした。このお茶が庶民の中に広がっていくきっかけを作っていったお寺が宇治にあります。
それは、江戸時代の初めに創建された禅寺 黄檗宗(おうばくしゅう)大本山 萬福寺(まんぷくじ)(宇治市五ケ圧)です。萬福寺を開いたのが中国から日本に招かれた高僧 隠元禅師(いんげんぜんじ-1592-1673)です。隠元禅師は、食文化(インゲン豆、タケノコ、レンコン)、木版印刷、医学や建築技術などを日本に伝えました。木版印刷の版木で使用された文字は明朝体の起源に、また20文字X20文字のレイアウトは原稿用紙の起源と言われています。
隠元禅師はお茶を煮だして飲む、煎茶(せんちゃ)を中国から日本に伝えたと言われています。江戸時代、抹茶は上流階級のものとされ堅苦しい面もありましたが、煎茶は気軽に飲みながら話せるコミュニケーションツールとして広まっていきました。
隠元禅師は3年で帰国するはずが江戸幕府などに引き留められ、生涯を宇治で過ごしました。
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