平安時代の女性は何していた?平安は時代の観光スポットは?平安時代の人気スイーツは?平安時代の必需品は?紫式部と清少納言の晩年は?

ドラマ、映画や小説であまり舞台にならない平安時代ですが、平安時代の女性の日常生活とはどのようなものだったのでしょうか?

平安時代の基礎知識

歴史に登場する人物が、藤原氏ばかりでわかりにくいのが平安時代です。源氏物語の作者の紫式部も、枕草子の作者の清少納言も、蜻蛉日記の作者の藤原寧子(ふじわらのやすこ-藤原道綱の母)も藤原家の方々です。

平安貴族を支える女性たちで有名なのが、一条天皇に嫁いだ藤原定子(ふじわらのていし)と藤原彰子(ふじわらのしょうし)。そして藤原彰子(ふじわらのしょうし)の女房として有名なのが清少納言、藤原彰子の女房で有名なのが紫式部です。そして、色々な女房たちが貴族社会を内側から見て、日記文学、歌集、物語を書いたのが平安文学です。

貴族社会で朝廷や身分の高い人々の仕えたのが紫式部や清少納言などの女房といわれる女性たちです。その役割が、天皇のお后様にお仕えするのですが、ただの小間使いではなく秘書のように働いていました。

貴族社会に生きた女性たち(平安女子)がどのような生活をしていたのかひも解いていきましょう!


平安時代の観光スポットは?

平安女子に人気だったテーマパーク的場所が、およそ1250年前に創建された清水寺(千手観音が御本尊)です。

全ての人を救ってくれるという観音信仰が貴族や民衆の間に広まり、観音像を安置する寺への参詣が流行する時代で、清水寺平安初期に貴族 坂上田村麻呂の力を受けて建てられたお寺なので貴族社会と距離が近く、平安女子が住んていた洛中エリアから行楽として清水寺に参拝していました。清水寺がある音羽山(おとわやま)は京都の中心から程よい距離で、坂道を上ることを含めて気晴らしに出かけるにはピッタリの場所だったそうです。

ちなみに、有名な清水の舞台は平安時代まだなく、お堂があるだけでした。


平安時代の人気スイーツは?

平安女子に人気だったスイーツは、削り氷(けずりひ)今で言うかき氷です。平安時代は飲食店ではなく自宅で食べていました。

平安時代は宮中には氷を司る役所があり、冬に池にできた氷を氷室(ひむろ)と呼ばれる貯蔵庫に保管し、宮中では夏にかき氷を楽しんでいたのだそうです。基本的には天皇やお后様用なのですが、家臣たちや女房達にも分け与えられました。なお、宮中直轄の氷室(ひむろ)が関西圏に20か所以上あったそうです。

清少納言の枕草子の中に削り氷(けずりひ)のことが書かれており、甘葛(あまずら)という植物からとった甘味料を使用していたようです。甘葛(あまずら)は、ツタの茎からとった樹液を煮詰めてつくるはちみつに似た甘味料なのだそうです。当時は金属の器の中に、氷をいれて甘葛(あまずら)をかけて食べたようです。

源氏物語(宇治十帖の蜻蛉巻)には、氷の塊を割るために騒ぐ姿や、夏のあまりの暑さに耐えかねて氷を頭や胸にあてていたと書かれています。

そして氷室ですが、下鴨神社で復元した氷室をみることができます。


平安時代の必需品

平安女子に欠かせないものは、扇(おうぎ)です!

扇は奈良時代の終わりにはあったようで、欠片が出土しているそうです。平安時代の扇は紙ではなく、木で作られた檜扇(ひおうぎ)でした。もともと奈良時代の貴族は儀式の際に笏(しゃく)という細長い板状のものを持っていました。装束を着用した際に威儀(いぎ)をしめすための物でしたが、笏の内側に儀式の進行手順などを書いたカンニングペーパーをメモのように貼っていたと言います。その笏が変化し日本独自の扇の形になりました。木簡をつらねてつくられた檜扇(ひおうぎ)は、あおいで涼をとるための物ではありませんでした。平安時代の中期になる数本の竹に紙を貼った蝙蝠扇(かわほりおうぎ)がつくられました。この扇を平安女子たちは様々な用途で使用していました。

扇に和歌を書いて贈ることもありましたし、女性のたしなみとしても使用しました。平安時代は、自分の思いや感情を表に出すことは卑しいと考えられていました。そのため女性たちはたしなみとして扇や袖で顔を隠していました。一方男性は頭の上を見せることは恥ずかしいことだったので、寝る時も烏帽子(えぼし)を被っていたそうです。

平安時代の生活習慣病

平安時代の宴会は準備に3か月、後片づけに3日かかり、3人開けずに宴会が催されていたそうで、2次会もあったようなのです。となると摂取カロリーが多い生活だったようです。さらに貴族の衣装は動きにくく運動不足になりがちでした。

藤原道長は記録に残る日本初の糖尿病患者され、第15回国際糖尿病会議の記念切手となりました。


平安女子の日常

平安女子は夜型人間

平安時代の政務は夜遅くまで続くことが多く、儀式に伴う徹夜の宴会もありました(宴会までが儀式)。貴族に使える女房達も夜型の生活になったそうです。夜に灯りをつけるので平安時代は火事が多かったそうです。

蜻蛉日記には、”清水寺にお参りに行って午前0時頃、一緒に行った人の家で食事をしていたら、家の方角で火事が起きているのが見えた”と記されています。

平安時代の恋愛ツール

平安時代和歌が恋愛のコミュニケーションツールでした。蝙蝠扇(かわほりおうぎ)に和歌を書き、意中の相手に届けていました。そのため、平安時代は和歌が上手な人は人気でした。そして和歌がうまい人に代作を頼むのは当たり前の世の中だったそうです。代作は悪いことではなく、上手い人に頼むのは当たり前な時代だったそうです。

男性が女性の元に通う形で恋を謳歌していた平安貴族ですが、帝(みかど)も和歌の上手い女房のところへ通うことになります。そのため和歌はもちろん、様々な能力を持つ女性が女房として雇われることが多かったのです。


清少納言の紫式部の晩年は?

平安時代は仕えた主人によって人生を大きく左右されました。

藤原定子(ふじわらのていし)は早く亡くなってしまい、定子に仕えた清少納言は宮仕えを辞めてしまいました。その後の資料はなく、諸国を放浪したというという話もあり、京都近くで隠棲したという話もあり、晩年は不明です。

藤原彰子(ふじわらのしょうし)の息子が天皇になったということもあり、宮中に絶大な力をもつことになりました。彰子に仕えていた紫式部は、彰子を支える有能な女房として長く宮仕えを続けたそうです。

 



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