桜田門外の変の犯人は誰?桜田門外の変で拳銃が使用された?井伊直弼の誰にどのように殺された?井伊直弼は殺されていなかった?井伊直弼の命日は3月3日か3月28日か?

徳川幕府の大老(たいろう)井伊直弼(いいなおすけ)が水戸浪士らに暗殺され、日本は幕末の動乱に突き進んでいきます。坂本龍馬の暗殺と並ぶ幕末の暗殺事件です。一体どのような事件だったのでしょうか?

桜田門外の変の事件概要とは?

桜田門外の変が起きたのは、幕末1860(安政7)年3月3日です。事件は幕府の最高職 大老(たいろう)についていた井伊直弼(彦根藩主)が水戸藩浪士たちに襲撃され命を奪われるというものです。事件の現場は、江戸城にあった桜田門(現在は皇居南側の入り口にあたる)で、現在もその姿をとどめています。井伊直弼は屋敷から約400mほど離れた桜田門に行く途中で、水戸の浪士たちに襲われました。実は現在の警視庁の前で井伊直弼は襲撃されたのです。

事件当日の天気は大雪で、井伊直弼は400m離れた桜田門へ向かいます。彦根藩の一行は濡れないように合羽を着て、刀に袋をかぶせ、雪の中を進んでいました。


桜田門外の変は、ミッションインポッシブルだった?

井伊直弼は居合(いあ)いの達人で、自分で一つの流派(新心新流-しんしんしんりゅう)を開くくらい、すごい腕前でした。

また井伊直弼の行列はおよそ60人に対し、襲撃者は18人という人数差、さらに狙う相手は剣の達人です。水戸浪士たちは不可能に見えるこの暗殺計画をどのように実行したのでしょうか?

襲撃犯はどこにいたのか?

江戸時代は大名行列を見ようと多くの見物人が集まり、見物人のための出店までありました。ここを拠点にすれば目立つことがないため、観光客の振りをしたり、ちょっと休憩している人のふりをしたりといくつかに分散していたのです。桜田門の周辺は、襲うには格好の場所だったのです。

午前8時頃 襲撃者(水戸浪士)のリーダー関鉄之助(せきてつのすけ)は、井伊直弼の行列の行く手を遮るよう仲間に指示をだしました。まず、行列を止めるため井伊直弼の乗った籠にむけて直訴状(じきそじょう)を差し出します。その時一発の銃声が鳴り響きます。それを合図に水戸の浪士たちは一斉に斬りかかりました。すると彦根藩側に異変が起こります。


井伊直弼の行列に何が起きたのか?

井伊直弼の行列に加わっていた従者たちが次々と(おそらく半数近く)逃げだしてしまい、井伊直弼をのせた籠もその場に置き去りにされました。実は井伊直弼の行列の半分はアルバイトだったのです。

大名行列には大勢の人が必要ですが、わざわざこのために藩士を国もとから連れてくるのは費用が掛かりすぎました。そこで各藩は臨時のアルバイトを雇って行列を仕立て上げるようになったのです。人材のあっせん業者のリスト(江戸六組飛脚問屋通日雇仲間)まであり、問屋に連絡をすれば日雇いで簡単に人を集めることができたのです。

60人の行列のうち約半数が逃げてしまったとしても、まだ30人 vs 18人と人数の上では彦根藩が優勢です。ところが戦いが始まるとなぜか、彦根藩士たちは次々と倒れていきます。なぜ、次々に斬られたのでしょうか?手が寒さでかじかんで刀にかぶせていた袋を外すことができず、刀を抜くことができませんでした。

なぜ3月3日だったのか?

3月3日は上巳(じょうし)の節句で、春の訪れを祝ったり無病息災を願う日でした。この日は大名が将軍に挨拶するために必ず江戸城に行かなければならない日で、水戸浪士たちは井伊直弼が確実に桜田門にやってくることが事前にわかっていたのです。


井伊直弼の暗殺方法は?

鳥取藩士の安達清一郎(あだちせいいちろう)が江戸から逃げてきた水戸浪士(関鉄之助)をかくまった際の日記が残っています。この日記が掛かれたのは事件の2か月後で、信憑性の高い記録です。

「同士と示し合わせ合図のピストルを撃ち、~ピストルの弾が籠の中の人物の胸先に当たっていて亡くなっていた」と書かれています。籠の中というと、井伊直弼を指す記述だと考えられます。なんと井伊直弼は、最初の銃撃で命を奪われていたのです。

ピストルの引き金を引いたのも関鉄之助だったのでしょうか?

鉄之助の弟関恕の証言で、鉄之助が一丁のピストルを現場に持ち込んでいたことがわかっています。しかし、関鉄之助は決して自分が撃ったとは安達清一郎には言っていないようです。しかも茶屋で水戸浪士たちを指揮していた関鉄之助は、行列のお供が邪魔で井伊直弼を狙うのは困難です。つまり関鉄之助以外にピストルを持った実行犯がいたことが考えられます。


井伊直弼を殺したのは誰か?

桜田門外の変で使用されたピストルが現存しており、そのピストルが入った木箱の裏には森五六郎(もりごろくろう)の名です。森五六郎は先陣を切り井伊直弼に直訴状を掲げた水戸浪士で、自ら出頭し捕らえられました。その時の尋問記録(細川家 書取)に「鉄砲所持 森五六郎」と書かれています。さらに、「森五六郎が用意していた鉄砲を籠に向けて撃った。」という記載もあります。

ピストルの入手経路は?

このピストルには桜の装飾があり、外国から入ってきたピストルを模して日本で作らたものでした。もとになったのはコルト1851ネイビー(アメリカ製)です。桜田門外の変が起こる6年前にマシュー・ペリーによって持ち込まれました。ペリーの航海記には20丁のピストルを将軍(Emperor)に献上したと書かれています。ペリーは相当多数を日本に持ち込んで、幕閣 当時の幕府の高位の方々に贈呈しており、そのうちの一丁がおそらく御三家である水戸家にも渡って、それを見本に水戸家で製作されたと考えられます。

水戸藩は攘夷(日本に迫る外国を追い払う)のために軍備艘強に取り組んでいました。この武器の製造を担ったのが矢倉方(やぐらがた)という部署でした。グリップに葵の紋が刻まれたペッパーボックス拳銃(連発銃)などが見つかっています。また「藩製造の武器もようやく充実してきたので、小銃などの販売を許可する」といった記録も残っています。矢倉方で製造された武器は水戸藩を幕末きっての軍事大国にしていたのです。

水戸藩の武器の製造は矢倉奉行という者が担当していましたが、その役所の下役(したやく)で務めていた森山繁之助(もりやましげのすけ)が銃撃に参加しており、そのルートから入手可能だったのかもしれません。事件の直後に描かれた絵に銃を持つ森山繁之助の姿が描かれています。

よって桜田門外の変に参加して水戸浪士たちのうち、関鉄之助、森五六郎、および森山繁之助が所持していた少なくとも3丁の銃が井伊直弼暗殺現場に持ち込まれていたと考えられるのです。


桜田門外の変は、なぜ起きたのか?

ペリーが来航したあと、日本は外国と貿易を行って国を豊かにしようという開国派と、外国人など打ち払ってしまえという攘夷(じょうい)派の二つに分かれてしまいました。それぞれのトップを、井伊直弼と水戸藩の徳川斉昭(とくがわなりあき)が担っていました。

複雑な事業がありましたが大きな要因としては、将軍の後継者争いと開国をめぐる対立だと言われています。井伊直弼の方は欧米と通商条約を結んでどんどん貿易をしていくように進めていくのですが、徳川斉昭は攘夷派なのでこれに猛反対し、井伊直弼は徳川斉昭を幕府の中枢から追い払い、永遠に謹慎していなさいと水戸に閉じ込めてしまったのです(安政の大獄-あんせいのたいごく)。当然に井伊直弼は水戸藩から恨みを買い桜田門外の変が起きたのです。


井伊直弼を襲撃した人たちとは?

多くが水戸藩を脱藩した浪士たちですが、浪士以外にも神職や鉄砲鍛冶も参加していました。主君(徳川斉昭)が厳しい処分を受けたため、憤慨し武士ではないのに刀を持って立ち上がったのです。江戸時代は身分制度はありましたが、幕末になると一生懸命に学問して様々な知識を蓄えて世の中を変えようという人達が武士以外にも出始めてきたのです。

関鉄之助(水戸浪士)、斎藤監物(神職)、岡部三十郎(水戸浪士)、杉山弥一郎(鉄砲鍛冶)、黒沢忠三郎(水戸浪士)、山口辰之助(水戸浪士)、蓮田一五郎(水戸浪士)、大関和七郎(水戸浪士)、森山繁之助(水戸浪士)、森五六郎(水戸浪士)、佐野竹之介(水戸浪士)、広岡子之次郎(水戸浪士)、鯉淵要人(神職)、稲田重蔵(水戸浪士)、広木松之助(水戸浪士)、海後磋磯之介(神職)、増子金八(水戸浪士)、有村次左衛門(薩摩浪士)


井伊直弼は殺されていなかった!?

桜田門外の変に関する不可解な史料が残っています。井伊直弼の実の弟が藩主を務めてた延岡藩(宮崎県)に残された資料(内藤家文書)には、「ろうぜき者が襲ってきて井伊様が手向かいして、都合9人ばかり取り押さえた」と書かれています。

実は、これは幕府が出した表向きの公式情報でした。見物人が集まる場所で起きた桜田門外の変は紛れもない事実です。幕府はなぜこのような情報を出したのでしょうか?

桜田門外の変が起きて最も頭を悩ませていたのは徳川幕府でした。藩主を殺されたのは徳川家康いらい将軍家を支えてきた彦根藩、一方事件を引き起こしたのは徳川御三家水戸藩の浪士たちで、幕府の屋台骨を支える両藩がぶつかり合う前代未聞の一大事でした。江戸時代藩主が跡継ぎを決めないまま死んだ場合、その藩はお家断絶というルール(武家諸法度)がありました。井伊直弼は突然命を奪われたため、跡継ぎをまだ決めていなかったのです。そのため、井伊直弼が暗殺されたと公表してしまうと、彦根藩はお取り潰しになります。そうなると、浪人になった彦根藩士たちが絶対水戸藩に復讐(仇討ち)するであろうと幕府は考えました。幕府は忠臣蔵の再来をおそれていました。

そのため井伊直弼は生きていると公表し、その間に彦根藩に跡継ぎを決めさせたのです。

豪徳寺(東京)に井伊直弼の墓があります。桜田門外の変が起きたのは3月3日ですが、墓石には命日が閏(うるう)3月28日となっています。井伊直弼の命日は、幕府によって2か月近くもあとにされていました。その間に井伊直弼の次男井伊直憲が彦根藩主に就任しました。

お家断絶になってもならなくても、主君を殺された彦根藩士たちは仇討ちに燃えていました。彦根藩士の中にはすぐに主君の敵を取ろうと、彦根藩の許しも得ずに江戸に向かった藩士もいました。江戸の彦根藩邸には彦根藩士が集結し、大砲や銃など大量の武器が持ち込まれ、一触即発の事態に陥ります。そこで幕府は彦根藩と水戸藩の衝突を避けるため、第14代将軍徳川家茂(いえもち)から彦根藩に一通の書状が送られます。「家来末々に至る迄 忍び難きを相忍び 動揺に至らずよう 幾重にも取り鎮め置き」怒る気持ちはわかるが、何とか耐え忍んで欲しいという将軍の願いが綴られていました。家康以来将軍に忠義を尽くしてきた彦根藩は、徳川家茂の言葉によってギリギリのところで踏みとどまったのでした。

さらにその5か月後1860(万延元)年8月15日に徳川斉昭も突然病死しし、敵討ちの相手を失い彦根藩士たちの怒りは次第に静まっていきました。

桜田門外の変の後に起きかけた知られざる内乱の危機 水戸藩と彦根藩の衝突が避けられたのです。忠臣蔵については赤穂藩(あこうはん)5万石と吉良家(きらけ)4,200石でも大きな事件となったので、水戸徳川家と井伊の彦根藩はともに30万石を超える大大名(だいだいみょう)だったので、もし彼らが江戸の町中で戦ったら大変なことになっていたと思います。

桜田門外の変から6年後将軍徳川家茂が亡くなり、水戸藩 徳川斉昭の息子である徳川慶喜(よしのぶ)が最後の将軍となりました。多くの彦根藩士はがっかりし、徳川家から心が離れてしまい戊辰戦争では新政府につきました。


彦根藩士26人の処分とは?

彦根藩(井伊家)は徳川家康の側近で、代々”赤備(あかぞな)え”といって強くて有名で質実剛健な藩だったので、自分の主君(藩主)を守れなかったというのは大失態だったので、厳しい処分がくだされました。現場で亡くなった藩士たちもいますが、よく頑張ったというわけではなく、ただ単に武士の本分を果たしただけ、当たり前なんだという評価がされたのです。

死亡:処罰なし

重傷:流罪(るざい)

軽傷:切腹

無傷:斬首(ざんしゅ)



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