色とりどりの宝石が輝く鏡、鮮やかなコバルトブルーの壺、美しい装飾が施された琵琶など諸玉の宝物コレクションが展示される正倉院展が毎年秋に開かれ、たくさんの人が集まります。その中の謎めいたお宝が、香木の蘭奢待(らんじゃたい)です。長い間正倉院で最も名高い宝とされてきましたが、その見た目は,黒々とした表面に切り取った跡のある枯れ木?!。。。そんなミステリアスお宝の謎を「歴史探偵」をもとにひも解いていきましょう。
蘭奢待(らんじゃたい)はどこにある?
正倉院宝物(しょうそういんほうもつ)である蘭奢待(らんじゃたい)は、国宝・正倉院(しょうそういん) 正倉(しょうそう)の真ん中の中倉(ちゅうそう)といわれる部分に保管されてきました。正倉院は、東大寺につくられた倉(くら)として誕生し、聖武天皇ゆかりの品、古いものだと奈良時代からの貴重な宝物など約9000件が収められています。そのなかでも、長い間最も注目されているのが蘭奢待(らんじゃたい)なのです。
なお、正倉院は勅封(ちょくふう)といって、天皇陛下のお許しがないと宝物は外に出せません。蘭奢待は、厳重に倉で守られ、めったに倉からでることはありません。
蘭奢待の香りとは?そして香りの正体とは?
正倉院紀要 第22号(2000年)の全浅香、黄熟香の科学調査 (米田該典)と題された論文があります。黄熟香は、蘭奢待の宝物としての名称です。2000年に正倉院の許可を得て、蘭奢待の成分を科学分析した結果が記されています。
論文の結果を見ると、蘭奢待にはクロモン類(化合物)という成分が含まれており、五味六国(ごみりっこく)の伽羅(きゃら)に属するものと考えられます。クロモンは、伽羅に特有の成分なのです。しかし同じ伽羅という群であっても、1つ1つ個性があるので、蘭奢待の香りは人間か実際にその香りと聞いたときに、どういう香りがするのかという印象を加えないと、科学者に対しても非常に難しい問いかけなのだそうです。
「古香徴説」(天明3(1783)年)には、「五味が順番に出る、それが九たび返される」と書かれています。さらには「初めの聞き杏仁なり」とも。。。香道では「奇気(きき)」と呼ばれる香りに杏仁の香りが含まれ、それは特に上等な伽羅に存在すると言われています。
アニスアルデヒド、アセトアニソール及びクマリンという3つの成分は、揮発性が高く、熱を加えたときに早い段階で立ち上ってくる成分だと言います。この3つの成分だけ嗅いでみると、お馴染みの杏仁豆腐より少し複雑で、どこか上品さを感じさせるような香りなのでそうです。蘭奢待の杏仁の香りが強いというのは、色々なポイントの香りがある中で、杏仁の匂いが際立つような構成になっているのではないかと思われます。蘭奢待の香りには、アニスアルデヒド、アセトアニソール及びクマリンという3つの成分が含まれている可能性があります。
香道の志野流に伝わる蘭奢待の一つに、明治天皇がお切りになったものがあります。志野流第21世家元継承者の蜂谷氏は、新型コロナ感染症の終息を願って、蘭奢待の一部を2022年5月に増上寺(東京)で焚き献上しました。蜂谷氏に乱じゃ香の香りについて質問すると、「重厚感だとか、威圧感というのは、それはもうすごかった。自分の全身に降りかかってくるようなものが、小さな香木で香なんですけどもそれは強かった。切り取った3人 義政、信長、明治天皇と同じ香を聞いている。君はどうなんだと言われていることもあるかもしれない。言葉にするのは難しいです。30年後、私が80歳ぐらいになったら、きっといい言葉が出てくるかもしれない。もし死ぬまでに分からなければ、生まれ変わってまた続きをすればいいだろうと思う。一生をかけて、その道を歩んでいく、ということです。」とお答えになっていました。
日本では古来から宝物というのは、秘すこと、隠すことということに意味を持たせてきた。誰もが見たり触れたりできない方が価値を持つ。そもそも香りというのは、隠す以前に見えないもの。香りの文化というのは見えないものに対する憧れ、見えないものの価値を尊重する日本文化の特質をよく表していて、その中でも蘭奢待は頂点に位置するのではないでしょうか。
蘭奢待を切り取った人は?蘭奢待が特別な理由とは?
蘭奢待が特別な理由は、木の内部にかくされています。蘭奢待が切り取られた箇所に印として付箋がつけられています。向かって左の付箋に書かれているのは、「織田信長」その左の付箋には織田信長よる約110年も前に蘭奢待を切った「足利義政」です。
足利義政は、室町幕府8代将軍で、応仁の乱など戦乱のなか政治の表舞台を離れて京都の東山に山荘を作り銀閣を建てました。茶道や華道そして現代の香道につながる香文化(こうぶんか)の礎を築いたとされます。足利義政こそが蘭奢待が天下の名香とされた歴史に深くかかわる人物なのです。
足利義政は蘭奢待を切り取った翌月に東山山荘(現在の銀閣寺)を建てる計画をしました。そこで生まれたのが、後の東山文化(足利義政の東山山荘を拠点に花開いた文化で日本文化の形成に大きな影響を与えました)です。茶道具、お香の道具や絵などもランクづけ(価値づけ)していく、その立役者となった足利義政が切ったこと自体が蘭奢待に箔(はく)をつけていったのです。
織田信長はなぜ蘭奢待を切ったのか?
織田信長が蘭奢待を切り取ったのは、多聞城(たもんじょう)です。大和(やまと=現在の奈良)の中心部を一望する場所に建てられた多聞城(たもんじょう)は、当時としてはめずらしい4階建ての櫓(やぐら)を持つ巨大な城で、まさに支配の象徴です。
そのころ天下統一に向け、畿内(きない)の制圧を進めていた織田信長にとって、大和は重要な地域でした。しかし織田信長の支配下にありながら、従わない武士も多く不安定な状況が続いていました。そんな中、織田信長は、正倉院から東大寺から西へおよそ1kmの所にある多聞城に運び出させ、領国支配の象徴だった城で蘭奢待を切り取ったのです。この行動にはどのような意味があったのでしょうか?
蘭奢待を切り取るためには朝廷の許可という手続きが必要で、そして切り取った蘭奢待を天皇に献上するという、新たに朝廷・天皇と織田信長の深い結びつきを周りの武士に見せつけました。将軍がいなくなって織田信長が新たな支配者になっていくという時期に、信長が朝廷を支えていくことを示すイベントとして蘭奢待は重要な役割を果たしました。そして織田信長は、大和を名実ともに従わせ、天下統一をさらに進めていくのです。
蘭奢待は、織田信長の大和支配に重要な役割を果たしたのです。
蘭奢待は外交手段?
織田信長は、蘭奢待を2切れ切り取り、1つは自分用、もう一つは正親町天皇に献上しました。そのあと有力な武将であった毛利輝元に贈るなど、天皇にとっても外交手段として使われたと考えられています。
もともと宮廷には、色々なお香の材料を混ぜ合わせて匂い袋を作って贈り物にするという文化がありました。蘭奢待の場合は、下賜(かし)する代わりに経済的な援助をしてもらったり、蘭奢待を献上した人に役職が与えられるという、あからさまな例も見られるようです。
香木は、切り分けられるという点で茶器などとは一線を画す特徴を持っており、その中でも特に力を持っていたのが蘭奢待なのです。
蘭奢待は権力の象徴?
この後、蘭奢待は天下人の証として重要な意味を持っていくこととなります。江戸幕府を開いた徳川家康は大の香木好きで知られ、蘭奢待を手に入れたときにはこの上ない喜びを示したと言経卿記に記録されています。徳川家康は幕府を開いたその年に蘭奢待を収める正倉院の大規模な修復事業を命じました。家康の思いは歴代将軍へと受け継がれていきます。5代将軍徳川綱吉が作らせ、寄進した蘭奢待を収めるだけに作られた専用の唐櫃(からびつ)が正倉院に残されています。さらに11代将軍徳川家斉(いえなり)の時代には、より厳重に守るために唐櫃(からびつ)に鍵がつけられます。いくつかの宝物で1つの箱に収めるというのが当時は多いのですが、蘭奢待にかんしては1点で1つの箱という形になっており、それぞれの天下人が蘭奢待を権力の象徴として脈々と大事にされてきたのです。
蘭奢待の役割は時代が変わっても受け継がれていきます。
明治10(1877)年、新政府ができて10年足らずで、各地で不満を持った士族たちが反乱を起こすなど、政情は不安定でした。そんな中、天皇は行幸という形で、全国を訪れ、民衆の心をつかもうとしていました。なかでも古代、都がおかれ天皇家とゆかりの深い奈良への行幸は重要でした。このとき蘭奢待を切り取らせた天皇は、自らの手で蘭奢待を割き焚いたと言います。織田信長が切り取ってから300年、高貴でかぐわしい香りが天皇の周り解き放たれました。蘭奢待は、権力者の象徴として移り変わる時代を彩ってきたのです。
このとき切った蘭奢待の断片は、滋賀県大津にある三井寺(みいでら 園城寺)に残されています。明治初期に町田久成(まちだひさなり)が寺に納めました。町田久成は、明治政府の官僚として文化財の保護に携わり、後に三井寺の住職となった人物で、明治10(1877)年に明治天皇が正倉院に行幸(ぎょうこう)したときに同行した町田は、天皇に命じられ蘭奢待を切りとったのです。
蘭奢待(らんじゃたい)はなぜ大切にされてきたのか?
蘭奢待(らんじゃたい)は、長さ156cm、重さ11.6kg香木で、宝物としての名称は黄熟香(おうじゅくこう)といいます。表面が黒々としていますが、黒い部分は樹脂(じゅし)がたまっている部分で、そこに香りの成分が含まれています。熱を加えると樹脂が揮発し、良い香りを発するのです。
蘭奢待が大切にされてきたのは、この樹脂が日本ではとても貴重なものだったからでした。日本では樹脂が表面にでるような木は採れません。科学調査をした結果、ラオス・ベトナムからもたらされたものだと判明しています。
蘭奢待のような沈香(ちんこう)と呼ばれる香りの高い香木が採れるのは東南アジアのごく一部の山岳地帯だけです。しかも、木にできた傷などが原因で偶然に木の内部に樹脂が溜まった場合にのみ採れるもので、その確率は数百本に1本程度なのです。現在では数が減りほとんど手に入れることが出来なくなっていると言われています。まさに自然が生み出した奇跡の産物なのです。
蘭奢待はなぜ有名なのか?
足利義政、織田信長、そして明治天皇、歴代の権力者が求めたその香りは、「天下無双の名香」と言われます。なぜ蘭奢待は天下人を魅了するほどの最高の香木とされてきたのでしょうか?
足利義政のもと、志野宗信(しのそうしん)らが香(こう)の作法を制定、その中で六国五味(りっこくごみ)もできたと言われています。それ以前にんも香文化(こうぶんか)は平安時代も含めありましたが、さらにそれを昇華させていき作法も細かく決め、楽しみ方も統一していったのです。そんな足利義政が命じたと伝わるのが、優れた香木の調査です。これを経て生まれたのが「六十一種目名香(ろうくじゅういっしゅめいこう)」と呼ばれる香木リストです。この「六十一種目名香」の中で、最上級と位置付けられたのが、東大寺すなわち蘭奢待です。その香りについては、甘い・苦い・辛い・酸っぱい・塩辛いの五味すべてが備わっていると書かれています。江戸時代になると、「六十一種目名香」は香道には欠かせない香木リストとして広がり、人々は「匂ひうへなき蘭奢待」と歌にして覚えるようになります。蘭奢待は正倉院に秘められた宝でありながら、誰もが知る最高の香木としてあこがれの的となっていったのです。
香道メモ
聞香(もんこう)とは、香道は香炉の中で温めた灰の上で小さな香木を熱し、立ち上る香を感じることです。香道では香を嗅ぐことを、「聞く」と表現し、香りは、五味(甘い・辛い・苦い・酸っぱい・塩辛い)で表現します。
六国五味(りっこくごみ)
六国(りっこく)とは、香木を品質の違いによって六つ(伽羅(きゃら)、羅国(らこく)、真那賀(まなか)、真南蛮(まなんばん)、寸門陀羅(すもたら)、左曽羅(さそら))に分類したもので、五味(甘い・辛い・苦い・酸っぱい・塩辛い)のことです。
蘭奢待(らんじゃたい)の名前に隠された秘密とは?
漢字の中にあるお寺の名前が隠されています。そう、東大寺です!諸説ありますが、蘭奢待は東大寺が守ってきた正倉院にある貴重な香木(こうぼく)だったので、もともと東大寺と呼ばれていました。しかし香木は火で焚くことから、縁起が悪いということで、「東大寺」という漢字を隠せる「蘭奢待」としたそうです。
コメント