能の演目の主人公のほとんどが神様か怨霊か鬼かで、怨霊や鎮魂の話が多くあります。また狂言には数曲、鬼が出てくる話があります。昔から京都には異界、怨霊、鬼、妖怪が存在するするようです。
平安京と怨霊鎮めの崇道(すどう)神社
平安京は、794年桓武(かんむ)天皇が794年に造営した都で、その名前は桓武天皇が抱えていた不安を解消するためにつけられたとも言われます。桓武天皇が平城京(奈良)から長岡京に遷都を行ったのは784年のこと。しかしわずか10年で都を平安京へと移しました。
京都市北東の比叡山の麓(ふもと)に位置する崇道(すどう)神社(京都左京区)は、桓武天皇の弟である早良(さわら)親王(750-785)を御祭神としています。早良親王は長岡京遷都の際、暗殺事件の首謀者とされ流罪になり、無実を訴え絶食の後に亡くなりました。すると桓武天皇の家族が次々に亡くなり、息子が病気になり、そして疫病や洪水なども相次ぎました。早良親王の祟りを恐れた桓武天皇は、遷都を決めました。新しい都は平(たい)らかで安らかな都であって欲しいという願いを込めた平安京という都の名前から、桓武天皇の切なる願いがうかがえます。
京都の町は怨霊を鎮める、あるいは魂を鎮めるということをしてきました。怨霊を神様にして、マイナスの力をプラスにしてもらおうという考えです。例えば、祇園祭りのもとになった御霊会(ごりょうえ)は疫病の神様を祀っています。放っておくと疫病をばらまく神様であるのだけれど、お祀りすることで神様になっていただいて、人々を守ってもらおうと考えていたのです。
鬼門・裏鬼門と猿
桓武天皇は平安京を造営する際、古代中国で生まれた陰陽道(おんみょうどう)の思想に基づいて徹底した怨霊対策を講じました。重要視したのは、北東にあたる鬼門です。怨霊は鬼門から入ってくると考えられました。のちの時代に造営された京都御所(京都市上京区)にも、鬼門対策の名残をみることができます。平安京の北東の角にあたる場所に京都御所があり、北東の角は「猿が辻」と呼ばれ、塀の一角がくぼんでいます。角をそのままにしておくと、その角から鬼が入ってきます。とがっていると良くないので、京都御所の壁を反対側にへこませることによって、正確な鬼門の方角が無くなる工夫の一つです。
そして「猿が辻」奥の建物の軒下には、木彫りの猿がまつられています。時刻や方位を表す干支ですが、鬼が入ってくるとされる鬼門にあたる北東は丑と寅になります。それに相対(あいたい)するのが申(さる)です。さらに「鬼に勝る(まさる)」「追い去る(おいさる)」「さる」という言葉から、猿の像を置いて守ろうとした人々の思いがうかがえます。
京都御所の北東に位置する幸神社(さいのかみのやしろ)(京都市上京区)は、平安京創建の際、都の鬼門除けの守護神として建てられたと伝わります。幸神社の北東の方角に烏帽子(えぼし)をかぶった猿が座っています。北東に猿の像をまつることで、魔物を追い払おうとしていたことがよくわかります。京都の人にとっては非常に大事な役割を果たしてくれていたのです。
京都御所から幸神社へ、さらに北東に進むと比叡山があり、これは鬼門ラインと呼ばれます。このライン上にもう一つ寺院があります。平安時代創建の比叡山延暦寺の塔頭(たっちゅう)である、赤山禅院(せきざんぜんいん)(京都市左京区)です。この屋根の上にも猿がまつられています。この猿は京都の方向を向いているのですが、京都御所の猿が辻の猿、幸神社の猿、みんな関係しているのではないかと考えられます。猿を置くことによって魔物を追い払うということに京都の人はこだわってきたのかかもしれません。京都はそれだけ鬼門、異界を気にしていたのです。
安倍晴明の邸宅
数々の鬼門対策もむなしく、やがて異界のものは都の中にもあらわれます。貴族たちは怨霊や鬼たちにおびえながら暮らしていたのです。そこで占いや呪術を駆使し貴族たちを守ったのが、陰陽師(おんみょうじ)です。平安時代貴族の社会に大きな影響を及ぼしたのが安倍晴明(あべのせいめい)です。
安倍晴明の邸宅があった場所に、安倍晴明が祀られていると人気の晴明神社はあります。安倍晴明は式神(しきがみ)とよばれる精霊の一種を操ることができたと伝わります。式神は人の目に見えず、門を通ると、ひとりでに門が開いたように見えたそうです。そして安倍晴明は、晴明神社のすぐ近くの一条戻橋に式神を隠していたとされています。
平安時代からある橋は、死人が蘇り、鬼があらわれる異界への入り口とされました。戻橋のある一条通は平安京の北の端です。日常の領域と異界との境界線にあたります。鬼や妖怪が夜中に徒党を組み更新する百鬼夜行はこの橋からあらわれました。遭遇した者は、死ぬと言われ、都の人は百鬼夜行があらわれるとされた夜は外出を避けたそうです。安倍晴明の邸宅は、日常の領域と異界との境目に位置し、平安京を守っていたようです。
ところで陰陽師とは、陰陽五行の考えに従って、暦をつくったり、時間をはかったり、占い、祈祷をしたりという役所であった陰陽寮(おんようりょう)で働いていた人を指します。平安時代から鎌倉時代に続き、変化しながら江戸時代にも陰陽師がありました。その後明治政府による陰陽寮廃止政策の一環として天社禁止令が出されたことにより、公的に認証を受けた職業としての陰陽師はその存在を禁止されることになりました。
異界との空間的な境
平安時代の洛中、洛外の境界線があり、空間的な境(さかい)が明確でした。平安京は、人間世界は四角い、天は丸いという考え方をもとに造営されています。中心の四角(洛中・らくちゅう)は人間が生きている世界(日常世界)で、その外側が人間非(あら)ざる者たちの住む世界(洛外・らくがい)と意識していたため境がとても重要でした。洛外はあの世、死んだ人、妖怪が隠れ潜んでいるところ、神様が鎮座しているところであり、普段人間が生活しないところで聖地であったり魔界や死者の世界でした。死者を葬(ほうむ)る場所は洛外にありました。
平安時代は、人は死ぬと、都から離れた野に葬(ほうむ)られる習わしでした。平安京より西の葬送(そうそう)の地、化野(あだしの)では、死者は野ざらしにされ、やがて土へとかえっていきました。
化野に葬られた無数の死者を弔うために空海が創建したと伝わる化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)(京都市右京区)です。寺には8,000体もの石仏がまつられています。もともとは化野の地に埋もれていた仏や地蔵たちです。寺は長い年月の間に面倒をみる者がなくなった無縁仏を供養しています。真ん中に阿弥陀様(あみださま)がいて、生きている間に仏法(ぶっぽう)に縁が無かった人、無縁仏になった人々が、阿弥陀様の説法(せっぽう)を聞いている極楽浄土の催しを表しています。
化野念仏寺で8月に行われる千灯供養(せんとうくよう)は、無縁仏を供養するための燈明(とうみょう)が煌(きら)めきます。光と闇が織りなす光景は、仏の浄土を表すもので、ろうそくを灯し無縁仏の成仏を祈ります。現世を生きる者は、自らの死後の救済を願い死者を弔(とむら)うそうです。
崇道(すどう)神社
崇道神社には、早良親王の姿を模した布鉾(ぬのぼこ)があり、白は無実を訴えた早良親王の清廉潔白を示すとされています。毎年5月5日に行われる祭りでは、先頭に早良親王をあらわす布鉾、続いて、御霊(みたま)を乗せた神輿が地域を巡行します。昔はこの御神輿(おみこし)が暴れることがあったそうです。それは早良親王が気に食わないことがあったサインで、御神輿は道なき道を行って、ものを倒したり、家の軒下を壊したりしたそうです。
怨霊鎮めの使命を担う神社、京都の人の怨霊への畏怖の念は、1,000年以上も続いてきたものなのです。早良親王を鎮(しず)めるための神社、これから先も京の都を早良親王の見守っていただきたいですね。
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