鬼門・裏鬼門とは、異界に住む鬼や邪悪なものが、この世にあらわれる入口です。では、鬼門や裏鬼門を出入りする鬼とは一体何なのでしょうか?いつの時代から存在するものなのでしょうか?鬼についてひも解いていきましょう!
鬼門・裏鬼門について詳しいことは下記リンクからどうぞ!
鬼門は異界への入り口!?お化けや幽霊が丑の刻に現れる理由は鬼門にあった!
鬼はどこから来たのか?
鬼という概念は、「鬼」という漢字が中国からきたのと同様古代中国から来ました。しかし、古代中国の鬼は、私たちが想像する現代の鬼とは異なります。
中国の古代からの民間伝承をまとめた「聊斎志異(りょうさいしい)」からひも解いていきましょう。この伝承をもとにした映画「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」もありますので、ご興味ある方はぜひ映画もご覧ください!
中国の物語に出てくる鬼の多くは、この世に未練を残して死んだ女性が男を襲うというものです。中国語の「鬼」は本来人が死んだ後になるもので、日本語で言うと「幽霊」に近いものになります。聊斎志異の中で特に目立つのが、女の人の「鬼」で、女性の幽霊という話が非常に多いのです。
これは、古来中国では「家」制度があり、また結婚して一人前という考え方があったため、女性が未婚で亡くなるとお墓にちゃんと入れてもらえなかったようです。そのため、未婚で死んだ恨み、未練があるので、幽霊となって、夜な夜な生きている男性を捕まえては、生気を吸い取るようになったようです。映画「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」に出てくる「鬼」も、若い妖艶な女性という印象です。
鬼は飛鳥時代に、人知を超えた得体の知れない存在に!
やがて、中国から海を越え日本にやってきた鬼は、幽霊とも異なる得体の知れない存在へと変貌していきます。
8世紀に書かれた日本初の公式歴史書「日本書紀」に記録されている鬼とは、飛鳥時代の660年日本の友好国百済が唐・新羅連合軍に敗北し、百済を助けるために斉明天皇は飛鳥から自ら軍を率いて九州へ出陣しました。しかし斉明天皇はその地で突如病死してしまいます。そのときの葬儀の際の記述が、「朝倉山の上に鬼ありて、大笠を着て喪の儀(よそおい)を臨み視る」というものです。
斉明天皇が仮埋葬されたといわれる恵蘇(えそ)八幡宮(福岡県朝倉市)に残されている絵巻には斉明天皇の葬列が描かれています。この葬列を大笠をかぶった鬼が近くの山の上から見ていたという、何とも不可思議な記述です。
ただし、斉明天皇が亡くなった時の葬列を朝倉山から鬼が見ていたというだけの話で、天皇の代替わりを見つめて見守っている時代の目撃者のような形で、悪い鬼ではないはずです。
日本書紀には他にも鬼に関する記述があり、鬼(もの)と読ませたり鬼神(かみ)と読ませたりしています。様々な鬼の読み方から、古代の「鬼」のイメージが見えてきます。最初は「おに」「かみ」「もの」というのは、あまり分化されていないません。ひとつずつ分かれていないものだったと考えられます。人間に益(えき)をもたらすものは「神」としてまつり上げられる、反対に人間に災いをもたらす害を及ぼすものは「鬼」と呼ばれてきた。かつて日本人は人知を超えた大いなる力を「おに」「かみ」「もの」と区別せずに呼んでいました。
そしてその後、人間に益(えき)をもたらすものは「神」としてまつり上げられ、反対に人間に災いをもたらす害を及ぼすものは「鬼」となったのです。
鬼は平安時代の魔界都市京都で恐ろしさを増した!
平安時代になると、鬼はもっと不気味で曰くありげになります。
百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)
ある男性の目撃談です。
「大みそかの夜更けに知人宅から一条大路を通って帰宅途中に、堀川に架かる橋を渡っていると遠くに光がおぼろげにみえてきました。「随分とたくさんのたいまつだから、きっと高貴な方に違いない」と思って、急いで橋の下に身を隠しその行列を見ないようにしていました。やがて我慢できずにそっと見上げたところ、たいまつをかざした恐ろし気な鬼たちがみえました。」
一条大路で、貴族の若者も隠れた門の隙間から目撃した話が残っています。この百鬼夜行との遭遇話にはいくつか、興味深い共通点があります。
現れる時間帯
百鬼が表れるのは夜です。街頭もない時代ですので、近くの人すらわからない深い闇の中で現れます。
これは、闇(暗闇)への深い恐怖のあらわれではないでしょうか。暗闇には、見えないものがたくさんうごめいているかもしれない、何かに遭遇する可能性もある、自分の生命が脅かされるかもしれないそんな恐怖です。(当時は)夜になったら普通の人は出歩きませんでした。深い闇を移動している人がいたら、それ自体がものすごく怖かったのではないでしょうか?その得体の知れない恐怖は、鬼としか解釈できなかったのかもしれません。
現れる場所
現れる場所は、一条大路そして二条大路で、その近くには天皇の住む大内裏(だいだいり)があります。
百鬼夜行とは、平安京に侵入し聖域のそばをうろつく者達ということかもしれません。貴族から見た、身分的に下の人間、あるいは自分たちとは違う世界の住人、と考えるような人々を鬼とした可能性があります。排除すべきもの、あるいは異物、そういうものを鬼と考えていったと思われます。
平安末期はかなり荒れていて、内裏も頻繁に焼けていました。世の中が荒れてきている時代に、鬼が目撃されることが多かったようです。平安京の闇に現れる鬼、さらに人々を恐れさせたのが、都の外から来た害をなす鬼だったのではないでしょうか。
室町時代になると百鬼夜行絵巻が描かれ、百鬼夜行のイメージも変わっていきます。詳しくは下記リンク先でどうぞ!
鬼は鎌倉時代にバリエーションが増え、室町時代から江戸時代にキャラクター化した!?
酒呑童子(しゅてんどうじ)
鬼と言えば、妖怪シェアハウスにも出演されていた酒呑童子ですね。
室町時代に成立した大江山絵詞に記されています。一条天皇の時代、京の都で若者や姫君達の行方不明事件が発生しました。陰陽師 阿部清明が、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業だと犯人を突き止めました。京都府北西部にある大江山は、かつて鬼が多く隠れていた鬼隠しの里です。現在も、鬼の足跡といわれる岩も残っているような場所です。
そこで天皇は995(長徳元)年に源頼光と藤原保昌らを大江山の洞窟の御殿に征伐に向わせました。頼光らは山伏を装い鬼の御殿を訪ね、一夜の宿をとらせてほしいと頼みます。酒呑童子らは京の都から源頼光らが自分を成敗しにくるとの情報を得ていたので警戒し様々な詰問をします。なんとか疑いを晴らし酒を酌み交わして話を聞いたところ、大の酒好きなために家来から「酒呑童子」と呼ばれていることや、平野山(比良山)に住んでいたが伝教大師 最澄が比叡山延暦寺を建てて以来、比叡山には居られなくなり、849(嘉祥2)年から大江山に住みついたことなど身の上話を語りました。頼光らは鬼に、八幡大菩薩から与えられた「神変奇特酒」(神便鬼毒酒)という毒酒を飲ませました。そして背負っていた武具で身を固め酒呑童子の寝所を襲い、身体を押さえつけて頼光は童子切りという名刀で酒呑童子の首を切り落としました。生首は、頼光の兜を噛みつきましたが、仲間の兜も重ねかぶって頼光は難を逃れました。
その後、首塚大明神に埋められたという説
頼光一行は討ち取った首を京へ持ち帰る途中、老ノ坂で道端の地蔵尊(子安地蔵)に「不浄なものを京に持ち込むな」と忠告され、それきり酒呑童子の首はその場から動かなくなってしまいました。怪力の坂田金時(足柄山の金太郎)が押しても引いてもびくともしません。そのため、頼光一行は酒呑童子の首をその地に埋めました。その場所が、現在の首塚大明神です。
その後、平等院の宝蔵に納められたという説
頼光一行は、酒呑童子の首を持ち帰り京の都に凱旋し、宇治の平等院の宝蔵に納められました。
酒呑童子は何を象徴するのか?
酒呑童子は、比叡山延暦寺から最澄に追い出されたという証言は気になります。鬼たちは、天皇を中心とした国家体制からは完全に刃向かう反逆した人達だった可能性があります。宗教で言うと一番権力を握っていたのは比叡山延暦寺の天台勢力です。天台勢力にも従わない宗教的なバックボーンを持った人たちが、酒呑童子を代表とする「鬼の集団」というイメージが出来上がった可能性が考えられます。
しかし、首が人々にさらされるというのは、まるで処刑された人のようです。人は悪い鬼が退治されたとしか認識していませんが、その背後に悲しい物語があったのではないでしょうか。退治される側の悲しみ、人間以外として排除されるものたちが示されている可能性があります。
百鬼夜行や酒呑童子の正体は、邪魔者と排除され、恐怖ゆえ鬼とされた人達だったのでしょうか?鬼とは、都の人々が排除したがる、まつろわぬ人々。やがて鬼は次第に都に住む人の心にすくうようになります…人の心に住むようになった鬼のお話は、下記リンクでお読みいただけます。
鬼は、奈良時代に人を襲い始めた!
奈良時代の記録には、ついに人を襲う鬼が登場します。島根県雲南市(うんなんし)の山間(やまあい)は阿用里(あよのさと)と呼ばれていました。この地名は鬼伝説が由来になっています。
ある日この地で男が畑仕事をしていると、突然目の前に現れたのは記録に「目一鬼」(ひとつめ)とだけ書かれた謎の鬼です。鬼は男を捕まえると、なんと男を喰い始めたのです。男は喰われながら「あよ、あよ」と叫んだといいます。このことから、この地が、阿用里(あよのさと)と呼ばれるようになったそうです。
出雲地方では「たたら製鉄」が盛んで、職人は人里離れて暮らし、火を見続けたため、失明することが多かったといいます。記録に残る「目一鬼」(ひとつめ)とは、この鉄の民だったのでしょうか?
鬼の魔物のようなイメージはどこからきたのか?
私たちがもつ、魔物のような鬼のイメージは、どこからきたのでしょうか?その謎を解くカギが飛鳥時代に建立された法隆寺にあるといいます。それは、法隆寺金堂にある日本最古の四天王像で、光背に刻まれた銘などから、650年頃に造られたと考えられています。
その足元を見ると、なにやらまがまがしい魔物がいます。これは四天王の手下として働く邪鬼(じゃき)です。日本の鬼の姿は仏教からの影響が大きいといいます。
元々邪鬼は仏教が成立する前からインドにいた夜叉(やしゃ)や羅刹(らさつ)などと言われています。インドの一番古い四天王といわれるインドのバールフット遺跡タベーラ(多聞天、たもんてん)像が踏みつけているがインドの邪鬼です。しかしインドの邪鬼は穏やかな顔をしており、私たちがイメージするような鬼の姿をしていません。
明らかに鬼の姿になるのが中国に入ってからで、龍門石窟(世界遺産)の四天王像に踏まれている邪鬼で、こちらは明らかに怖い顔になっています。仏教が中国から日本に入ってきたときに、邪鬼の図像も日本に入ってきたと考えられます。日本ではその邪鬼の図像を見て「これが鬼だ」と考え、鬼を表すときに邪鬼の姿を鬼と表現したのだと考えられています。
その後、鬼はどうなった?
鎌倉時代以降の鬼
鬼は鎌倉時代にバリエーションが増え、室町時代から江戸時代にキャラクター化した!?
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